2012年12月31日月曜日

ファスビンダーと美しきヒロインたち

渋谷のイメージフォーラムで上映中のライナー・ヴェルナー・ファスビンダー特集、『ファスビンダーと美しきヒロインたち』に行ってきた。ネタバレを含むので注意。

彼の作品を観るのはこれが初めてで、これらの作品の背景となっている戦後のドイツ社会の変化についても、どうしても把握しきれないところがあるが、そうした点に関する深い洞察が無くても楽しめてしまう物語的な面白さと、そこに留まらない表現力にはとても驚かされた。

未知の映画監督の作品を観るときには、自分の場合には例えばカサヴェテスのときもそうだったが、色んな作品を横串で観た方が良いと最近は思うようになってきている。こうしたイベントの場合などは、企画している人の意図について後から考える材料にもなるし、素人が盲打ちで観ていくよりはよほど精度の高い見取り図を得られる。詳しくなった後であれこれ文句を言うのも含めて、色々な面でお得である。

ドイツというのは、わたしにとっては近くて遠い国で、知識のマップがまだらになっている。そういうなかで、この3作品に触れて、ドイツ社会の規範性の強さや、それと相反するような集団で動く際の倫理性の欠落、またそれらが個人(あるいは、もっと限定するなら愛)をどのように規定するかという点が問題になっているのだろうと思う。

規範性の問題が最も色濃く出ているのが『マルタ』で、ジェットコースターでゲロ吐いてるところでプロポーズをしたり、日焼けしすぎで真っ赤になっているところでマルタを抱くなど、明らかにマルタの夫であるヘルムートの行動は異常なのだが、マルタは友人にそのことについて相談しつつも、その事実を体面を気にして覆ってしまう。一方でヘルムートは自分の行動はマルタを愛するが故のものだと説明するが、彼はマルタがあるべき夫婦の規範に囚われるタイプであることを理解して、自覚的に行動している。

しかし『マルタ』のこのシーンは凄い

倫理性の欠落については、『ローラ』がそれに当たるが、それが元々あるのではなく、様々な人を巻き込みながら達成されるものとして描いている。堅実で汚職など許さないフォン・ボームがローラへの愛が故に敗北し、ローラはフォン・ボームと結婚しながらシュッケルトから娼館を譲り受けもする。

観たなかでも最も面白かったのが『マリア・ブラウンの結婚』だったが、この作品に関しては、規範性と倫理の問題、また愛の問題のバランスが最も良く、また構造としても分かりやすい。主人公のマリアは、上記のローラと同系統の人物だが、『ローラ』が群像劇であったのとは異なり、マリアを主人公としたピカレスク・ロマンの色合いが強く、マリア個人の背景がもう少し詳しく描かれている。

マリアがローラと同じ系統の人物であると書いたのは、彼女が自分に向けられた愛を利用して様々なものを手にしていくことに由来している。『マリア・ブラウンの結婚』における登場人物たちはそれぞれに求めるものに渇望を見せており(彼らはしばしば、オブセッシブに煙草を吸ったり、ピアノの鍵盤を乱雑に叩いたりする)、主人公のマリアだけはそうした執着とは無縁だ。マリアにそれを可能にしているのは、結婚してはいるが夫が不在であるという状況であり、また不在の夫を愛しているという言表である。
「じゃがいもがなきゃ大根を使えばいい。でも、愛にだけは代用が効かない。どうして愛する人はただ一人なんだろう。」
上記は愛に関する作中のセリフである。言い換えると、彼女は代用不能なものを餌にして、交換可能なものを手に入れている。マリアはとりわけ、夫が身代わりで刑務所に収監されてからは、この構造を自覚的に利用しはじめる。

自分の持つ力を冷静に、自覚的に運用する点ではマリアと『マルタ』におけるヘルムートも同じだが、ヘルムートが不快なのは自らの保身に使っている点にある。『マルタ』の後味の悪さは、マルタとヘルムートの間に横たわる規範性が、作中で不動のものとして固定されてしまうところにある。

一方で、マリアに魅力があるのは自らの役割をひっくり返し、経済的主体として「自らを確立した」ことで合理的な自己目的に向けて最適化されている点にある。そうした在り方は、レッセ・フェール的な市場における適切解であり、彼女はやはり『ローラ』の登場人物たちと同じ場で活躍する。この見立てでいくと、『ローラ』におけるフォン・ボームは、不正を許さない穏やかな紳士として描かれているが、市場統制派なのだろう。

マリアに戻ると、自分を支えてきた構造が崩れることになるからこそ、夫が急に釈放されることが決まったときには喜ぶよりも先に狼狽したし、その後で夫が本当に戻ってきたときにも複雑極まりないな表情を浮かべることになる。

最大限の抵抗として夫に全ての財産をくれてやることで男としての存在感を無くし、夫不在の状況を作ろうとしているが、それもビジネスパートナーとの取り決めによって対等の財産を手にすることが判明し、彼女を支えていた空白は埋まってしまう。終始一貫して執着とは無縁だったマリアが、その象徴としての煙草に火を点けることで物語の幕が下りる。

マリアはあらかじめ求めるものが失われているが故に、何でも手に入ることができる。この物語構造は、全てを持っているが肝心なものは手に入れられないという、『市民ケーン』でも有名な人物造形を裏返したものだ。不在の夫から定期的にバラの花が届くのはオーソン・ウェルズへの目配せと考えるのは、穿ちすぎだろうか。

2012年12月9日日曜日

本棚の崩落

久しぶりの地震があって、翌日になって本棚が崩落した。

使っている本棚は、引越しの際にネットで適当に注文した安物で、見た目はいいが微妙なバランスを保っていないと崩れてしまう。おかげで、だいたい年に一度は崩落事故が起きている。

またかと思って、まずは本を救出して床に広げる。大した冊数でもないのに、物理的な紙の量に少し驚く。全て読んでしまった後だし、始末してしまった方が良いような気もしてくる。

Kindleを使っていれば、全てがあの薄いデバイスのなかに収納される。収納はそれで解決する。一方で別の解決しない問題も出てくる。

電子図書において致命的なのは紙というメディアに対するフェティシズムが満たせないことではなく、本棚という概念が存在しないことであり、各人が本棚を通じて構築している理解が俯瞰できない点にある。

アトムとビットとの対比を考える。ビットの世界においてある情報との遭遇は必然的なものになりつつあり、偶然的な要素は減っている。

本棚が崩落して、結果として本の配列が変わり、どこかで私の理解も更新される。電書のシステムは本棚の見た目はコピーしていても、こうした振る舞いは実装できていない。これが実装できたとき初めて、電書が書物を上書きする。

2012年12月4日火曜日

Electraglide 2012

エレグラに行ってきたんですよ、ということで。

幕張の遠さを舐めていたのと、入場に時間がかかったために高木正勝の最後の方から参加。その後、Kode9Amon Tobin、電気グルーヴ、Squarepusher、一休みを入れてOrbitalAndrew Weatherallという流れ。

隙間でDJ KrushDJ Kentaroも観られて、この面子で8800円って相当安いなあと思う。本当はFour Tetも観たかったんだけど、今回はSquarepusherにした

Amon TobinISAMは美しかった。ただ、事前の期待を裏切るような何かはあまりなく、またセットが意外と小さいこともあってあまり乗り切れなかった。


個人的には、Squarepusherが一番良かったと思う。この人がライブでやってることは、表面的な音が変わっていても基本的には同じで、原曲を留めない改変やノイズの追加が楽しい。CDで聴いてたら苦痛になるんだけどライブではいけてしまう。

後半になってベースを弾き始めてからが本番。どんなエフェクター使ってるのか知らないけど、とんでもない音を繰り出してきた。最後はお約束の"Journy to Reedham"で締めるも、イントロのピコピコ音とリズムぐらいしか把握できなかった。



・・・

あちこちで言われているように、ゴミは散乱してるし禁煙のフロアで喫煙してる奴はいたし(煙がどうこうというより、危険)、フジロックと比べるとだいぶお行儀が悪い。クラブなんてそんなもんだと言ってしまえばそうなんだけど、風営法絡みでの署名運動をしている横でそうした光景が広がっているというのは、色々見直したほうが良いんじゃないかと思ったり。

自分はその手の音楽はよく聞きつつも、夜寝ないとダメなのであまりクラブには通っていなかったので、昼間にやれば解決なんじゃないかと思うんだけど、そういうわけにはいかんのでしょうか。

2012年11月5日月曜日

【読書】ここは退屈迎えに来て/山内マリコ


『ここは退屈迎えに来て』を読んだ。

三十路帰郷モノとでも呼べばいいのか、都会に出ていた女性が何かのきっかけで田舎に帰ってからの生活を描いたマンガや小説はそれなりに需要があるようで、これもその一種。

ネットで話題になっていたのは、三浦展のファスト風土論に引きつけてある部分で(大した分量ではない)、既存のフォーマットの上に味付けとして使われているのだと思っていたら、巻末の参考文献に『ファスト風土化する日本』が載っていた。

これまで自分が読んできたなかで、こうした形で読者の読みに方向性を与えている小説に出会ったことが無かったので、けっこうな驚きだった。

登場するアイテムがいちいち的確(というか、同世代の匂いがすると思っていたら同い年だった)なことや、「地方都市のタラ・リピンスキー」でネットの小咄にあるようなどんでん返しを持ってくる辺りで、テクニック、マーケティングで書かれている部分が非常に大きい作品なのではないかと思った。

そして、そのために作品自体が閉塞してしまっている感がある。

読み進めるに従って過去に遡っていく形になっているが、そのことが登場人物の未来を形作っていく何かを明らかにするわけでもなく、現在の姿に新たな彩りを加えるわけでもない。どん詰まりの現在に行き着いて、そこで終わりである。

プロダクトとしての完成度は高いが、そこから先が無い。

それが自分の世代だと言ってしまえば、そうなのかも知れないが。幻冬舎の本だし、ミニマルな点に共感しながら読んでいるのがちょうど良いのかも知れない。

2012年10月10日水曜日

KIDULTの凡庸さ


VimeoにKIDULTの映像が上がっていたのを発券

彼のグラフィティはtumblrで何度か流れてきていた。下の写真のようなもので、わたしは新手の店頭ディスプレイかと思っていた。けっこう綺麗だし。これを作ったときの様子は上のビデオにもあるのだが、どうやらマジでやっているらしい。とっくに「回収済」だと思っていたのでちょっと意外。



ビデオのなかで彼が語っていることは、はっきり言って中身がない。そして凡庸。そもそも、彼のグラフィティがあまり有効でないから本人が前面に出ざるを得なくなっていて、誰か「回収」してくれと訴え出ているのかも知れないようにも思える。

2012年10月4日木曜日

ワークショップの有効性をめぐるあれこれ

9/29(土)に開催されたローカリゼーションマップ勉強会、「自由に考えるワークショップ』を考えてみよう」に参加してきました。ワークショップとは何かという定義から始まり、その効果や意義について参加者同士での討議があり充実した内容でした

私はLSPのファシリテーターとして自己紹介しましたが、参加にあたっての問題意識はファシリテーターというよりは参加者寄りで、ワークショップは特定の経験を濃縮した形で関係者で共有できるものの、そこで生まれた内容の実行段階に移ると効果が持続しなくなる点が気になっていました。

楽しかったけど、結局アレは何だったんだ?」というやつです。

実利性という点では、広告代理店で行なっているように、ワークショップを通してコンセプトを参加者から引き出し、それを実際に使うメッセージや制作物に反映させていく方法は理にかなっていると思います。言い換えると、ワークショップで生み出された結果を制約条件として用いる方法です。

コンセプト(Concept)という言葉は語源的には「妊娠(Conceive)」の意が含まれるので、そのアナロジーを用いるなら、赤ちゃんが生まれたならきちんと育てていく必要があります。それも、勝手に育つということはないわけで、適切な制約(規範など)を与える必要がある。

最初から間違ったものが生まれていた、ということもあるかも知れません。ただし、遭難した山岳隊が登っていたのとは別の山の地図をそうと知らずに使いながらも生還したという話もあるように、正解がない状況で進んでいくには、「正しさ」や「適切さ」よりも全員が同じ方向に進むことが重要な場合もあります。その進む方向を決めるに当たって、カリスマが決めるのか、参加者のなかから発見していくかが問われており、後者の手段のひとつとしてワークショップがあるのだと思います。

逆にいうと、「正しさ」が重視されている環境ではワークショップの効果が限定的になってしまう可能性がある。そうした場合にしばしば問われるのは、「ワークショップの効果を事前に証明する」ことです。

この問いはワークショップに限らず、結果がオープンエンドなもの全般に適用することができて、
 - 良いデザインを作って製品の売上が伸びるか?
 - 伸びたとして、そのうちのデザインの貢献度だけを取り出すことはできるか?
 - できたとして、その説明に納得感はあるか?
といった形に言い換えられます。「デザイン」は情報システムなどに入れ替え可能です。答えは言うまでもないですね。

「良いデザイン」に対しては世間一般でもその価値は認知されてきていると思いますが、それを生み出す「クリエイター」という人種に対してある種のカリスマ性が与えられている影響もあるでしょう。具体的にいえばジョブスとか。

この点で、ワークショップに関していえば、カリスマ・ファシリテーターという存在が許されないのが弱点ですね。それが成立するようなら、そいつは本質的にファシリテーターではない。

ただし、もしかすると、ワークショップという形式を広めていく上では確信犯的にそうした人物を作り上げることも必要かも知れません。わたしもハイパー・ワークショップ・ファシリテーター(HWF)とか名乗ってみようかな?

大抵の人間は(自分も含めて)、誰かに「これが正しい」と言い切ってもらったり、自分を省みる暇がないほどサバイバルな状況に身を置かないと、自身の行動に確信を持てなくなります。

その意味では、ワークショップが目指すべきゴールの一つは、「赤信号みんなで渡れば怖くない」精神かも知れません。

それは冗談として、ワークショップのような凝縮された空間を作りつつ(そこまで極端でなくても)、決めたことを実行していくためにモニターしながらプロセスにも関与するような人は、今後は色々な組織のなかでは必要とされてくるのだろうなあと思います。とりわけ企業におけるマネジメント(トップ、ミドルともに)の在り方として。

これを実行、再現していくことに関しては、過去の経験に照らし合わせて、ある程度確信を持ってできると思っていることでもあります。当面のわたし自身のテーマとしては、それを実行していく場を作るということになります。

2012年10月2日火曜日

郊外としての湘南と駅ナカ

『移動者マーケティング』という本を読んだ。JR東日本企画による本で、「乗客」を「移動者(移動する潜在的コンシューマー)」と定義しなおすことで生まれる新たな需要の創造についてまとめた本である。

品川のecuteのように駅ナカの開発でJRが成功を収めていることは記憶に新しい。最近では辻堂に駅直結の大きなモール(テラスモール湘南)ができたり、札幌でも駅(と地下道)を中心に再開発が進み地域のコアになっている様子が見て取れる。最大の例は、大阪ステーションシティが開業8ヶ月で来場者が1億人を突破した例だろう(大阪万博は6,421万人)。

個人的には、こうした動きについては色々と思うところが多い。なかでも辻堂に駅直結のモールができたことは割と衝撃的な出来事だった。

その理由を説明するには、まず辻堂という場所について書く必要があるだろう。辻堂は神奈川県の藤沢市にある。いわゆる湘南エリアに含まれるものの、どちらかといえば地味なベッドタウンである。最近になってマンションが大量に建ったりして人口が増えている。詳細はこちらでも。

ブランドとしての湘南にはお洒落なイメージがあるが、観光地、ベッドタウン、三浦展がファスト風土と呼んだロードサイド、農地、工場、未開発のなんだかよく分からない場所。これらがだだっ広い土地に散らばっているのが実像だ。一言で表すならスプロール。いわゆる「湘南」は、そのなかでも寺社や自然が集まった地域が特区のように存在していると言った方が正確だろう。

きわめて大ざっぱに言って、神奈川県は相模川の辺りでモータリゼーションを中心とした文化圏と、公共交通機関を中心とした文化圏とに分かれている(もちろんグラデーションはある)。テラスモール湘南ができた辻堂は、地理的にはその川の「手前側」に当たる。

JRによる駅を中心とした街の再開発がモータリゼーションからの脱却の一貫として行われているものとして考えると、辻堂はその最前線に当たる。入っているテナントもかなり気合いが入っていて(ロンハーマンが横浜よりも先にできた)、モールとしては勝負を仕掛けているのだろうと思う。そういう意味で、辻堂の先(東京から見て)に同様の駅ナカモールができるときこそ、大きな変化が生まれる可能性がある。

ただ、この動きも単にモノとカネの動きを活発にするだけでは、また別の郊外を生むだけで終わる可能性がある。その場合には、経済状況もあってより一層悪い形で実現するだろう。

そこで生活する人間を含めて、「都市」というものについてどのようなグランドデザインを描けるかということが問われているのだと思う。この辺りのことについてはまた書きたいと思うが、いち消費者としては、そこで自分がお金を落としたり、落とさなかったりする選択が意味を持つような形になって欲しいと思っている。

2012年9月27日木曜日

アッバス・キアロスタミ『ライク・サム・ワン・イン・ラブ』


キアロスタミ最新作、『ライク・サムワン・イン・ラブ』を観た。

以下、ネタバレ注意。

前情報として、凄いところで映画が終わるというのは仕入れていたが、本当に凄いところで終わる。しかしエンドロールが流れたとしたも、物語が終わるわけではない。むしろそこから続いていくこともある。これはそうした種類の映画である。

彼の作品に特徴的なその他の要素、車での移動、街のノイズ、クラクション、電話、役者達の自然な演技などは本作品でも健在である。

ただ、それよりも目立つのは、登場人物達が執拗に「似ている」ことについて語ることだ。映画のからして、「恋に落ちた人のように」だし、タカシの部屋にやってきた明子はそこにある写真や絵に自分が似ていることを語り、明子の祖母はピンクチラシに明子に似た人物がいることを語り、同様のチラシを部下に見せられたノリアキはそいつを殴りつける。

「似ている」ことを認めないのはノリアキだけだ。

もう一つは、今回は内と外の表現が非常に多い。タカシが一人で帰ってきたときの隣人の視点と、明子と一緒に帰ってきたときの隣人のおばさんの視点。その隣人のおばさんが弟の世話をする際の、二重の壁。タカシが明子を助けにいったときなどは、クラクションを鳴らしても明子は気づかない。彼は車から出ていくしかない。この境界を乗り越えられるのは声だけで、その媒介として電話やインターホンがある。それを切ることは、そのまま関係の切断を意味する。

その壁はぶち破られる。

この内外の表現は、そのままカメラの映し出す範囲として、登場人物の人物像や関係にも投影されている。様々な要素が見えないままになっている。

祖母はなんで連絡もついていないのに東京まで出てきたのか?明子の携帯電話の番号を教えた人は、何でそれを言って欲しくなかったのか?タカシはどういう経緯でサービスを依頼したのか?舞台が横浜なのに六本木のABCが本屋である理由は?

見返しながら、こういう部分を色々想像して補完してみるのは面白そうだ。もしかすると、最初から穴は開いていたのではないか、というのがわたしの想像だ。

2012年9月24日月曜日

100件目

このブログを書き始めて100件目の記事、のはず。
公開していない記事を入れるともっと多いが、ともかくちょっと整理してみよう。

アクセスランキングのトップ5は以下。
1. カバーヨ・ブランコの死とニューエイジの書としてのBorn to Run
2. ソクーロフによる『ファウスト』観てきました
3. FUJI ROCK FESTIVAL 2012 参戦記
4. Lana Del Rey
5. ボストン滞在記
キャッチーさのまったくない2件がツートップ。らしいといえばらしい。4位も含めて検索エンジン経由でのアクセスが多く、私個人を知らない人のアクセスなのは良いことだと思う。

1位の『Born to Run』という本に関しては足底筋膜炎から抜け出すきっかけを貰えたので感謝している反面、どうしても違和感を拭えないところがあった。その違和の部分に焦点を合わせているので、多少刺激的な内容になってアクセスも多いのかも知れない。ソクーロフは多分、観た人が「わけわからん!なんだこれ!」と思っているのかなと。

以下、雑感。

・Facebookで私と繋がりがある人からは、意外な面があったとか、あまりイメージが変わらない、とか色々な反応があって、とはいえそうした反応はその人達との関係からだいたい予想はつくものだったりする。大抵の人は読んでないだろうけど。

・書き始めたきっかけとしては、何年か文章を書いていなかったので構成力や表現力が落ちていたこと。続けていくうちに自分の考えを形にして吐き出すことが肝になってきた。次へ進むために頭から追い出すということもあるが、ぼんやりとした考えをそのままでは抱えていられなくなってきた気がする。

・内容と文体とを統合しようとするのはしんどい作業なのであまり行なっていない。ただ、文書を洗練させるには必要だと思うので、どこかで取り掛かろうとは思う。

・内容によって文章へ投下したエネルギーに差がありすぎる。

・書く内容については、かなり意識して剪定している部分があるので、書いてあることが全て本当のことであるとも限らないし、その他のブログと変わるところはない。

Kindleでメガ・ノヴェルを読む

ドン・デリーロの『アンダーワールド』を10年ぶりぐらいに読み直している。

日本語版が実家のどこかに紛れてしまって見つからないので、英語の勉強を兼ねて原著に挑戦。

Kindleで読んでいるので、他の読者が加えたハイライトが人数付きで見える。あまり詳しくないので実際は分からないが、恐らく一定の人数がハイライトした部分が表示されているのだと思う。

書き込みがある古本は鬱陶しいが、こちらにはあまり不快感はない。むしろ、デリーロのような,、拙速に読み進めるよりも細部をじっくりと読み込んでいく必要のある作者の場合には、ハイライトがあると他の人が注目しているポイントが見えて面白いことも多い。

ハイライト箇所だけ追いかけていくこともできて、これはこれでtumblrでウェブや本の抜粋が流れてくるのと同じような印象を受ける。

ともかく、巨大な本なのでメモだけでも残していこうと思う。公開しても自分の能力不足が目立つだけかも知れないが、それは受け入れるしかない。

2012年9月20日木曜日

Moe and ghosts (追記有)



最近、Moe and Ghostsばかり聴いています。これを聴けと俺のゴーストが囁(略)

所属レーベルHEADZ佐々木敦氏によるコメントはtogetterにまとまっています。いつもは売り手によるコメントは、どうしても割り引いて考えてしまうのですが、Moe and ghostsやこのアルバムに関しては当たっていると思います。

幽霊というモチーフについては、インタビューでは下記のように語っています。
幽霊とは多義的で人によってイメージするものも様々です。例えば「お化け」だけが「ghosts」ではないですし、何度口にしても定まらないもので、だから何度でも言いたくなってしまいますよね。
かなり早口のラップなので完全に追えていない部分が多くあって、そのために断片が積み重なって浮かび上がってくる音はリスナーによって違うのだろうと思います。

意図的にやっているんだと思いますが、ラップに反してトラックはかなり聴きやすいし、くり返し聴くことで意味合いが揺らぎを含みながら立ち上がってくるため、モチーフとする幽霊的なるものとスタイルが噛み合っていて(それも奇跡的なレベルで)、要するに好みです。

ブリストル勢やDJ ShadowDJ Camなどを聴いて育った人間としては、人間としてのラッパーなんて別にいらないじゃんと思っていたりします。その点、Moe and ghostsは初音ミクぐらいの存在感であまり気にならないというか、よく考えれば「萌え」という概念も、実体を伴わなくても良いものですね。

そういうわけで、ライブがあっても行くべきなのか。あんまり生身の人間がパフォーマンスしているところを見たくないような気持ちもあります。恐らく本人達はまったくそんなこと考えてないと思うんですけど。

(9/30追記)

Ustreamで流れていたライブを観ましたが、想像していた以上にパワフルで素晴らしかったです。行けばよかったなあ(行けなかったけど)。

2012年9月5日水曜日

【読書】スティーブ・ジョブス(3/3) アップルの作戦能力

これまで、ジョブス個人についてばかり書いてきたので、一応は仕事もしている人間として、アップルという会社について。

アップルについては本当に色んな本が出ていて、そのなかで私が読んだのはごく一部なんですが、最近話題になっているものということで、『僕がアップルで学んだこと』。

著者の松井博氏はジョブスが復帰した頃からアップルにおり、最終的には本社でシニアマネージャーを務めていました。その視点からアップルの強み、特にOperational Capability(作戦能力?あまり適切な訳語を知らず)について語っているのがこの本です。

実は松井氏のブログ(リンク)を読んでいただいければ、できて当たり前のことを当たり前にこなす上にそのレベルを少しずつ上げていくアップルという会社の凄みが伝わります。蛇足ながら、、少しだけ本からの抜粋を。

・研究開発費
MS1/8Google1/3。明快な商品コンセプト、優れたデザインを開発工程の上流で生み出した上で、そこから先の開発や製造はケチケチとシビアにやっていく。 コンセプトやデザインがしっかりせずに良いものを作るのは不可能。ここが定まっていないと、開発費は嵩んでいく。 
・開発状況は「定点観測でチェック」
著者の松井氏は日本風にいえば「品質保証部」の統括。アップルにおける品質保証部の役割とは、品質を「保証」しようとする努力ではなく、開発中のプロジェクトの状態を定点観測することで、その製品が出荷可能な状態にどの程度近づいているかを測る機能。部署ごとに責任を持つ範囲に関するデータを持ち寄り、互いにチェックしあうことで定点観測を行う。 
・社員同士で競争させる、社外の「アップルで働きたい人」も競争相手
社内転職も比較的容易なので、いい意味で目立つ人はより花形の部署へ移り、出世も早い。優秀な人がそのときどきに「ホット」なプロジェクトに集まってくるので、会社が注力したい製品開発において自然と優秀な人材を確保できる。
・明快な責任の所在、説明責任、責任と自由裁量はセット
社内政治という形で表れていますが、相互にプロフェッショナリズムを求める文化ということだと思います。上記の基本的な考え方があってのものなので単にポリティクスが渦巻いているのともまた違った趣があります。もちろん、ここには責任に対しての報酬もあります。  

R&D費用などは変動もあると思いますが、品質保証に関しては同じような考えで臨んでいたので、自分のやっていたことの裏付けがとれたようでした。

自分のいた分野では、品質は印象論や個人の感覚で語られがちで、悪くするとシックスシグマに関するジョーク(合格基準を緩くすれば99.9997%なんて簡単に達成できる)みたいになりがちなのですが、きちんと根拠をとれるようにプロジェクトを設計しておくことは重要ですね。

というか、本を読んだ限りシックスシグマを愚直に追求しているのではないかと思いますが。

『僕がアップルで学んだこと』では、アップルの熾烈な社内政治についてもよく書かれています。あまり知られていなかった点で、この本がブレクしたきっかけの一つだと思います。社内政治については伝記のなかでもアップルとピクサーの文化の違いとして軽く触れられていいます。あまり突っ込んではいませんでしたが、やはりこれもジョブスに端を発したものなのでしょう。

単純に人数だけ見ても、ピクサーとアップルとでは組織の色合いが異なります。作っているものだもありますが、ジョブスの甘えを許さないペースで進めていくやり方を徹底する上で、関わる人数を考えるとアップルの方がより強い統制が求められるものと思います。

自分の経験に照らし合わせてみると、グループ全体で10万人を超える企業の会長の方にお会いしたときには、とにかく恐ろしいスピード感を求めるところに圧倒されたのですが、一方でその企業と仕事をしたときには、何事につけ時間がかかってしょうがないというギャップに面食らったことがあります。

得てして、組織で仕事をしていく際には受け渡しの段階で情報が加わったり減ったり、間違って伝えられたり、小回りは効きにくくなります。それ意外にもどこかがサボっていることもあるでしょうし、もたれ合いが発生することもあります。

その解法のひとつが、個々の部署のプロフェッショナリズムをベースとした相互監視体制であったのではないかと思います。ジョブス復帰後にプロダクトの数を絞ったことで、それぞれの開発状況について状況把握が行いやすくなる効果もあったと思います。

伝記では、あまりこの辺りのマネジメント的な部分は深掘りされていません。恐らく、死後にCEOを継いだティム・クックの影響も大きいためではないかと思います。どちらかといえば、ジョブスはそっち型ではなかったと思いますし。

2012年8月30日木曜日

【読書】スティーブ・ジョブス(2/3) チャンス・オペレーションとセンサー

カウンターカルチャーのというOSの上に乗った、ジョブスの才能とはいかなるものか。

極端なまでの審美基準の厳しさはそのひとつで、そのせいで家具が揃えられないなどの事例が伝記ではくり返し紹介されていますが、とりわけ印象深いのは闘病中の下記のくだり。
最高の医療と看護とで大事にされていたにもかかわらず、ジョブスは爆発しそうになることがあった。(中略)ほとんど意識がない状態でも、強烈な性格は必ずしもおさまらなかった。たとえば呼吸器科の医師がマスクをつけようとしたときには、大量の鎮静剤が投与されていたのにジョブスはマスクをはずし、こんな変なデザインのものは身につけないとつぶやいた。 
まともに口がきけない状態なのに、「デザインの違うマスクを5種類持ってこい、そうしたら気に入ったデザインのものを選ぶから」と言うのだ。(中略)指につえる酸素モニターも不恰好で複雑すぎるといらい、もっとシンプルにデザインする方法をいろいろと提案した。
ここまで来ると、悲劇を通り越してスラップスティック・コメディとも言っていいレベルに達しているのですが、自らの生死がかかっているような場面ですらまともなデザインのマスクを選ばなければ気が済まない業の深さは恐ろしいものがあります。むしろ医者が馬用の鎮静剤でも打つべきだったのかも知れませんが。

著者のアイザックソンはジョブスの性格の激しさと表現していますが、鎮静剤すら効かないというのは果たして性格なんでしょうか。

一般的には、何らかの嗜好であるとか、選択の結果をもってある人の人格を表せるように考えられていますが、個人的には同意しません。むしろ、あくびをするときの手の動かし方や、眩しい時の目の細め方などの、無意識的な行動にこそ個人の存在が表れてくるように思っています。この意味で、ジョブスのこの行動は、彼自身がひとつのセンサーと化していることの表れではないかと思います。これと絡んで重要な点がひとつ。
ジョブスは時折、会社自体をサイコロにかけてみることが重要だと考えていた
この記述で思い浮かぶのは、チャンス・オペレーションという手法。具体的には、「偶然性の音楽」のジョン・ケージや、『高い城の男』の執筆時に易を使って物語の方向性を決めていたフィリップ・K・ディックなど、個人の感性を排除して、偶然を導入することで創作の可能性を広げるための手法です。

ここでのサイコロは例えですが、振付家のマース・カニンガムはダンスの振り付けのためにサイコロを用いて、この数字が出れば左に動くとか、どの数字が出れば2回ジャンプするといった実験を行なっていました。

現実には、企業経営においてサイコロを振るというのは、ライバル社の動きや技術、法制度、政治まで含めた様々な変数で成り立っているので、高度に複雑な作業です。イノベーションそのものが、そうした行為であるとも言えるでしょうが。ある意味ではしかし、これは「経営者」にしかできない仕事とも思えます。

わたしの携わっているLSPなどは、偶然の力を利用するための方法論の一部と言い換えることもできます。偶然を活かすためには環境作りも必要で、制限時間を設けて頭の回転を早くしたり迷う暇すら与えないことなどはその代表的な事例と言えます。この点は現実歪曲空間で無理難題を部下にいつの間にか納得させているジョブスと似たものがあります。

偶然性に身を任せるためにもう一つ重要な点は、その変化をどう捉えるかというセンサーを磨くこと。

ジョブス本人のセンサーとしての精度という点では、Macの開発時に大学で学んでいたカリグラフィが蘇ってきた、ということはフォントに関する本を齧ったレベルでは起きないことだと思います。起きたとしても、せいぜい思い出すという程度でその精度は低い。ジョブスには実装に至るまでのカリグラフィに対する深い理解があったし、それを突き詰めるこだわりもあった。

自分の周辺の感性鋭い人を見ていると、やはりこのセンサー的なものが発達していて、それと同時にセンサーを維持するために努力を惜しまないところがあります。同時にその限界も皮膚感覚で理解しているところがあり、恐らくそれはジョブスにもあったのではないかと思います。

2012年8月24日金曜日

【読書】スティーブ・ジョブス(1/3) OSとしてのカウンターカルチャー

今更ながら、スティーブ・ジョブスの伝記を読みました。読書会に誘われたということで、こういうことでもなければ偉人の伝記なんて滅多に読まない人間なので、いいきっかけだなと。

基本的に、伝記というのは、そこに書かれていないことをいかに補完するかが鍵になると思います。特にこの本の場合、著者がなるべく主観を廃するように気を使っているため色々な部分でツッコミが足りないところがあります。

そのため、幾つかのサブテキストを登場させます。具体的には、ジョブス以前、ジョブス本人についての解釈、そしてアップルという会社を巡るそれぞれについて。

そこら辺は後で書くとして、おおまかな感想としては、想像していたよりも彼は当時のカウンターカルチャーのど真ん中にいたんですね。禅やヨガ、ベジタリアンにのめり込むのは当時の若者らしいというか。

当時の人の多くは LSD でハッピーになって世界人類皆友達、みたいな方向に行ったのに、ジョブスはまったくそんな方向には向かわなかったのは凄いですね。むしろ、人としてどうよというエピソード満載で、若い頃の話は本当に面白い。

ジョブスといえば一般的にはスタンフォード大学の卒業式での"Stay hungry, Stay foolish"という言葉が有名かと思います。本にも登場する通り、これは本人のオリジナルではなく、Whole Earth Catalogという雑誌の最終号から取られています。

ここで登場するのがサブテキストその1、『ウェブ×ソーシャル×アメリカ(池田純一)』。



カウンターカルチャーがいかにシリコンバレーの構想力を鍛え上げたかをテーマとした本で、どちらかといえばGoogleをはじめとしたWeb2.0企業群寄りの立場で書かれている本で、ジョブスが引用したWhole Earth Catalogや発行人のスチュアート・ブランドについては、カウンターカルチャーの重要な参照点として一つの章で丸ごと取り上げられています。

簡単にまとめると、

スチュアート・ブランドはスタンフォードを卒業後、陸軍へ入隊、軍のフォトジャーナリストなります。除隊後は仕事を通じて興味を持ったアートを学ぶべく、サンフランシスコのアートスクールへ通い、その後はアメリカ先住民族を訪れてメディアを複合的に利用したイベントを企画したり、ケン・キージー(『カッコーの巣の上で』の作者)LSDを利用したイベントを企画したりしています。 後者のイベントはNYのアート集団であるUSCOとの協働プロジェクトでした。66年には、宇宙から見た地球の写真をNASAに公開を求める運動を起こします。

こうした経歴を辿った結果として、ブランドはベイエリア周辺の複数のコミュニティ、アート系、サイエンス/テクノロジー系、それらの間を行き交うジャーナリスト/ライター系の人々を結びつけ、カウンターカルチャーの先導者の一人になりました。その後、テクノロジーが商業化の段階を迎えたところでビジネス系の人々も引き寄せることになります。重要なのは、こうした領域横断的な動きはジョブス以前から準備されていたということです。

Whole Earth Catalogはコミューンの活動を支援する情報を提供するために創刊されました。これをジョブスが手に入れるわけです。この雑誌を作る上で、ブランドはバックミンスター・フラーのComprehensive designという考え方の影響を大きく受けています。以下はその説明の引用。

デザイン=設計の際には、全体(comprehensive)を見渡した上で、最小資源で最大の効果を得るものが最良のデザインであるという見方。デザインを単なる意匠として捉えるのではなく、最終的な成果物が利用者に与える効果まで見越した上で行う行為と捉える、より包括的な考え方だ。

フラーの直接的な課題は安価で効率的な住居の大量供給であったため、デザインといっても建築の「設計」と言った方が適切かも知れない。

フラーは、全体を見渡し最適な解決方法を得るためには一度外部へと離脱し、その外部から全体像を眺めた上で検討することが不可欠であり適切な対処法だと考えていた。

ブランドは、こうした考え方にスタンフォード時代に学んだサイバネティクス、システム論を接木してカウンターカルチャーというOSに一定の方向性を与えたというのが私の理解です。相互フィードバックを重視するこの方法は、AppleGoogleの組織文化にも繋がる部分です。そこにジョブスの才能というソフトウェアが乗り、生まれたMachintoshからiCloudまでの一連の製品群は、ユーザの情報環境をトータルで設計したものではなかったでしょうか。

なお、フラーのいう「外部へ出る」ということと、伝記にはあまり詳しくは書かれてませんが、LSD体験とが密接な関係にあったことは、この時代の証言から幾つも得ることができきます。そのあたりは、『オウム真理教の精神史(太田俊寛)』を読むと、この当時のニューエイジ思想のルーツと状況、その後にオウムに至るまでの影響が綺麗に整理されており、大変面白いです。サブテキストのサブテキストになってしまうのであまり深くは突っ込みませんが。

さて、ではジョブスというソフトウェアの中身というのが続き。

2012年8月20日月曜日

【読書】ビジネスは「非言語」で動く

『ビジネスは「非言語」で動く 合理主義思考が見落としたもの』を読了。

著者である「博報堂ブランドデザイン(社名が著者というのは不思議)」でもLEGO Serious Playを使ってワークショップを行なっているのは知っていたので、手に取ってみました。

インサイト調査などを引き合いに出しながら、人々の意思決定に潜んでいる言語化されていない領域の重要性とそれを引き出すための方法を並べつつ、いかに活用していくのかを述べています。こうした内容に不案内な人にとっては、何かと参考になることが多いと思います。

ただ、自分でもブログを書いていて思うことですが、この手の内容の宿命として、本当に面白い部分はパッケージ化できないというジレンマがあります。

この本にあるようなワークショップに参加して、上手くいったダイナミズムを味わったことのある人であれば、まだそれを思い出すこともあるでしょうが、全くゼロだと非常に伝わりにくいです。その点に配慮して、様々な角度から工夫して書かれていますが、その分、少し散漫な印象を受けたことは否定できません。

なお、個人的にこのサブタイトルにはあまり同意できないものがあります。厳密に考える際にはロジックで詰めていくことは必要だし、詰めに詰めた先の跳躍を行う際に、こうした非言語的な部分が必要になるわけで、これらは対立するものではないと思っています。

ここでいう合理主義というのは、正解主義というか、事前にある程度結果の見えることしか行わないための言い訳として持ち出される様々な屁理屈のことであって、閉じた領域における合理性に過ぎず、本来の意味での合理主義ではありません。

本のなかでも強調されていた、合意形成というのは、ロジックを詰めた先にある正解のない領域に進む際にステークホルダーを巻き込んでいく上で必要なものなので、尚更そう思います。


2012年8月17日金曜日

IFTTTを使い始めました

テストを兼ねて。

前からちょっと気になってはいたのですが、IFTTTを使い始めました。

IFTTTは "If this then that"の略で、「これ」をしたら「それ」をするという行為を自動化するものです。ここで試しているのは、BloggerにアップしたものをFacebookのフィードに上げるというもの。FBじゃなくてもDropboxやEvernoteと組合せたり、色々できます。というか、組み合わせは無限に近くありそう。

過去に似たものとして、yahoo pipesなんかもあったと思いますが、あれも連携させる上では少しハードルがあった。IFTTTの場合、かなり簡単だし、大抵のウェブサービスを使えるし、見た目もシンプルで快適です。

こういうサービスが普及して、個別のプラットフォーム同士の連携だけではない可能性が生まれてきて、生態系のようなものが生まれてくるとまたウェブの様子も変わってくるのだと思います。それを考えるとIFTTTのロゴの重なりあった感じは良いですね。

2012年8月15日水曜日

ランダムネス






散歩をしていて見つけた、とあるマンションの養生前の壁が地図みたいで面白かったので撮った写真。規則性とその背後にある自然のランダムネスが表現されていて面白い。人によっては3枚目などはライフゲームみたいと思うかも知れない。

人間はランダムネスそのものは認識できないわけで、ランダムなものを、どうやって認識できる形に落としこむかは意図的にランダムネスを用いる場合には重要なことになると思う。

2012年8月2日木曜日

非言語的な思考

悩むことと考えることを並べて、悩むのには価値がないので考えるようにしなさい、といった主張に行き当たることがあります。

これはこれで妥当な指摘ですし、「思い悩む」ことには意味がないとは自分も思いますが、では「考える」とは実際にどのような行為なのか。

レゴ・シリアスプレイのワークショップをやっていると、ブロックの使い方のパターンが現れてくる場面に立ち会うことがあります。一度それを見出した人はくり返し使っていくことが多いです。

レゴの場合、作った人がブロックに与えられた意味が機能となりますが、ボルトやナットなどの具体的な物を相手にするときでも、その機能を発端にその使用方法のパターンを発見できます。この場合の思考とは、頭のなかで文章を作ることではなく、特定の機能と機能とを組み合わせていくことですが。

自分の場合でも、エンジニアリング的な仕事をしているときには、目の前にある問題を自分の得意な解決のパターンにいかにはめ込むか、全部が無理でも部分的に適用できないかと試行錯誤を繰り返していました。

これに似た事例として、『技術屋の心眼』という本にエジソンが回転シリンダーを様々な機械に応用しながら発明に使っていった事例が載っています。
「エジソンは、蓄音機、印字式電信機、電気ー機械式テルオートグラフ(文字や絵を電気信号に変えて、離れた場所で再生する装置)、キネトスコープ(映画の前進)などの様々な機械で採用した機械的な組合せを、くり返しくり返し使用した」
この『技術屋の心眼』という本は、技術者の持つ独特の思考法について詳察を重ねていて、とても面白く読めます。その思考についての記述を引用すると、
「技術に携わる人びとが構想している物体の特徴や特質の多くは、言葉では明確に表現することができない。それゆえ、心の中で、視覚的で非言語的なプロセスによって処理されることになる。」
本のタイトルに使われている心眼(Mind's Eye)とはこの「視覚的で非言語的な」プロセスを指します。著者のE.S.ファーガソンは、ここを出発点としてエンジニアが物を作り出していくのプロセスを分析することで、非言語的な思考の本質を探っていきます。

この、非言語的な思考は言語による伝達が困難であるために、それを身につけた人とそうでない人の間に大きな差が生まれます。差というのはアウトプットは当然として、そこから発する市場価値においても。

当たり前のことですが、知識を身につけただけではなく、実際にそれを作って運用させた経験とそこから得られる勘が必要であるということです。

このことは、ある種の技術の継承は実践のなかでのみ行えるものであることを言い表してもいます。医者による手術の技術の継承が、解剖ではなく実際の手術の現場において行われるように(わたしの盲腸切るのに苦労していたあの新米医者は元気かな?)。

2012年7月30日月曜日

FUJI ROCK FESTIVAL 2012 参戦記

フジロックフェスティバルに行ってきたので、その記録です。出発してからチケットを忘れているのに気付いて一度家に引き返したり、サングラスが壊れるなど小トラブルが続きましたが、どうにか無事に乗り切りました。

暑いのがずっと苦手だったのに、今回参加したのはとにかく復活したストーン・ローゼズを観るため。全てはこの一点です。今回ローゼズを見られなかったら一生後悔すると思ったから。

ゲートにて
歩くよ歩くよ

色んな人が足を休めている川。水が冷たくて超気持ちよかった
グリーンステージ。このときはOWL CITY
入場に時間がかかったせいで、お目当てにしていたMouse on the keysは見逃してしまいました。一緒に行った友人が、まずはJah Wobbleを知人からお勧めされたとのことで、当てがないのでついていくことに。

THIRD COAST KINGS
オレンジに向かう途中、ホワイトステージを通りかかり、そのまま吸い込まいました。そこで演奏していたのがこの人たち。他にも吸い込まれてくる観客多し。濃厚でいながら端正なファンクで、相当テクもありそうなんですが自己満足には走らずに観客をどんどん盛り上げていて楽しかったです。


熱かった!



Jah Wobble & Keith Levene – Metal Box In Dub

さて、友人がお薦めされていたこれなんですが、正直、書きづらいです。低音が凄まじ過ぎてスピーカーに近づけない。奏でている音も異様だったし、いったい何だったのかよく分からない。後から調べたら、PILのジョン・ライドン以外のメンバーでやってたんですね。現場にいたときは立ちすくむしかなかったです。

その後、少し時間が空いたので少し休憩。BOOM BOOM SATELLITESとMORITZ VON OSWALD TRIOは時間が被っていたのでどっちに行くか迷っていたのですが、MORITZ VON OSWALDが入院、残ったメンバーでの演奏と聞いてBBSに決めました。

BOOM BOOM SATELLITES
彼らのライブは初体験。

レコードで聴くと彼らの楽曲はかなり機械的な印象を受けるのですが、サポートメンバーとして入っている福田洋子さんのドラムがとんでもないビートをガンガン刻んでいて、ライブなりの肉体性を獲得していて格好良すぎました。衝撃的。

この映像で感覚は掴めます。



BEADY EYE

先日の武道館でのノエルと同じく、"Rock 'n' Roll Star"と"Morning Glory"というオアシス時代の曲で一番の盛り上がりをみせる。この兄弟にとってオアシスの呪縛は巨大だなあと改めて思いました。というか、お前ら再結成してしまえよ。
ノエルの場合"Supersonic"の新たな解釈を見せてくれもしたのですが、BDIの方はアレンジもそのまんまで笑えました。その割には歌うときにもたつきを見せていたりして、フロントマンとしては、リアムの方が不器用なところも含めて天然物の役者だなと思います。
ノエルとBDIの両方を聴いてみると、オアシスを構成していたものが分解されて見えた気がして、もう少し別行動しているのを見ているのも面白いのかなと思いました。案外、本人達もそう思っていたりして。

眉毛弟

OCEAN COLOUR SCENE

ほとんど話題に上がっていないのですが、思い出補正とか色々入っているローゼズを除くと、今回一番良かったのは彼らなんじゃないかと思います。BDIの後、ローゼズの前という時間帯でけっこう空いていましたが、ダイナミックかつ丁寧な演奏、サービス精神山盛りの有名曲ばかりで楽しかったです。いかんせん地味ですが、安定感ありました。







THE STONE ROSES
どこから何を書けばいいんでしょうか。"Second Coming"の頃に彼らを知って、もう17年も聴き続けてるバンドだし、フジにやって来たのも彼らを観るため。彼らの曲はB面曲も含めて全部歌えるし、メロディも歌もバンドの音もほぼ覚えている。わたしの音楽的な記憶の多くの部分を彼らは占めてます。

いや、もうぶっちゃけ彼らを見たら泣くと思ってたんですよね。しかし、あまりにもライブが素晴らしかったので自分の感情なんかどっかに飛んで行ってしまっていた。見終わった後は燃え尽きていて、しばらく経ってから本当に来て良かったなという気持ちが心の底から沸き上がってきました。大げさですが、17年も彼らの曲を聴き続けたのもこの瞬間のためだったのかなと思います。

歌が下手(これはいつものこと)だとか、演奏がまだ完全じゃないとか、色々な意見はあるわけですけど、そのためにマジカルな瞬間が降ってくるということはあるわけです。完成度の高さ故に予想の範囲から出てこないバンドも多いなかで、危なっかしさと美しさが絶妙なバランスの上に実現している。これは彼らだから実現できることですね。ファンの贔屓目もあるでしょうけど。

ジョン!
イアンの着てる服は1stのジャケット柄
落ちてくるレモン
レニー!
I am the resurrectionのアウトロ中、ブルース・リーのフィギュアで何かやってるイアン
フィナーレ。もう何がなんだか
友人が感極まって泣いていた

2012年7月8日日曜日

技術的な先祖返りをどう見るか

色々あって、新しいカメラが手に入って撮りまくっています。

時代に逆行するように、被写界深度、絞り、シャッター速度などは全てアナログで操作するものです(一応デジタルですが)。おまけに背面の液晶を見ながら撮るわけでもないので、ファインダーを覗かないと話になりません。修行すればファインダーを覗かずに撮れるようになるでしょうが。

これまではリコーのGR DIGITAL IIを使っていたのですが、細かな調整をカメラ任せにしていた分、これまで使ってこなかった筋肉に刺激を入れるような面白さがあります。それと同時に、自分で引き出せる表現力の可能性にちょっとワクワクしています。

ここ1週間は新しい(しかし旧式の)カメラを使っていて、そうしたなかでいきなりGRを使うとファインダーを覗きに行って調子が狂ったり、液晶で情報を見ながら写真を撮るのがどうも気持ち悪く感じてしまい、自分の感覚が変わってきているなと、少し嬉しく思ったりもしていました。

さて、ある意味でこの移行は先祖返りに近いものだと思います。カメラという機械は、それ自体としては既に完成されていて変更の余地の少ない、枯れたものです。写真を撮るという機能は変わらないわけで、機械が代行できる部分を排除しても早く馴染めるというのは、そこが大きいのだと思います。

わたしは物持ちが良く、15年も同じシャーペンを使っていたりします。洋服のような消耗品以外はあまり買い換えません。なので、何か新しいものを買ったときには進歩具合にびっくりすることが多いです(特にデジタル系は)

驚きの多くは主に身体感覚のズレから来るもので、例えば携帯電話からスマホへの移行(ボタン→タッチパッド)などはその際たるものでした。個人的には、タッチパッドはハード的な対応をソフト面でやってしまえる点では優れていますが、ポケットに手を突っ込んだままメールを打ちたいユーザには不親切です。その機能性と、スマホというデバイスのあり方というのは実は噛みあっていないとも思います(ここらへんは書きだすと長くなりそうなのでまた別の機会に)。

最終的な落着点は経済性により決まるものと思います、その評価もまた、その外側にあるユーザのニーズ、言い換えれば特定の技術やシステムをどこまでの深度、射程で捉えるかという点で価値は変わります。カメラについて言えば、デジタルな制御から外れて発揮できる表現力を重視するのか、それとも写真は適度な画質で失敗なく撮れればいいやと思うかで、随分と評価は変わるということですね。

2012年6月28日木曜日

ダウンロード違法化についてのあれこれ

youtubeが定着した頃(とうかモンティ・パイソンのアレ(リンク)から、アメリカではライブで稼ぐモデルへの移行が進んでいて、そうした状況がありながら、業界を上げてやることがテクノロジーの進歩や時代の変化への対応ではなく、失われつつある収益構造の保全であるという辺りで、完全に日本の「音楽業界」は終わってるなと。正直なところ、それ以上の感想はない。そもそも、既に次のフェーズへ移ってしまっているので、今更こんなことをしても何にもならない。

思い返せば、Massive Attackの"100 Windows"をCCCDで買ったときに、何かが失われたような気がして殆ど聴かなかった。作品の出来栄えとは別の次元で、完全に熱を削がれた。CCCDに関しては音質やプレイヤーを壊す可能性が取りざたされていたけれど、一番大きく毀損したのはリスナーへの信頼なのだと思う。

信頼というのは、交差点を渡る際を例に取れば、信号機(社会インフラ)が正常に機能しているという期待や、信号が赤になればドライバー(他プレイヤー)がちゃんと止まってくれるという期待など、幾つかのレイヤーに跨っているものであり、それぞれが正しく機能する必要がある。

アナロジーで語ると様々な語弊が出るのだが、お伊勢さんに参拝するために道を歩いているのがリスナーであり、その途中にあるお茶屋がアーティストであり、今回のDL違法化を推し進めている連中は公共の道のど真ん中に勝手に関所を構えてそこを通る人間から通行料を取っている。関所を構えている連中は、道路そのものに対して何ら貢献をしているわけではない。

2012年6月4日月曜日

ソクーロフによる『ファウスト』観てきました

銀座シネパトスにて鑑賞。かなりネタバレを含むので観たい人はご注意あれ。


以前、この作品は実在したゲオルク・ファウスト博士を下敷きにしたものではないかと書いていました。この予想は完全に外れて、割と忠実にゲーテの『ファウスト』をなぞった作りになっていました。

ただし、読んだことのある人にはわかると思いますが、『ファウスト』に同じゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』のようなビルドゥングスロマンを期待していると火傷します。その上、ソクーロフによるヒットラー(『モレク神』)、レーニン(『牡牛座』)、昭和天皇(『太陽』)を描いた権力者4部作の総仕上げになる作品ということで、否が応でもまっすぐに古典作品を映画化したものにはなり得ません。

上の予告編では何やら名作文芸映画のようになってますが、原作を読むかわりに映画で済ませて読書感想文を書こうと思っていたり、美麗な映像と美形の俳優たちの繰り広げる華麗なドラマを期待していると、ありがたくも冒頭からドアップの○○○(ぼかし入ってますが)や内臓が流れ出るシーンを拝むことになります。

上では割と忠実になぞったと書きましたが、それはあくまでも粗筋レベルの話で、細かいところを見ていけば様々な異同があります。ソクーロフの問題意識に基づいたアレンジが加えられているわけですが、その差分から権力者シリーズへと繋がる点を探すのが、本作を読み解く上での鍵となるでしょう。

原作は、神とメフィストフェレスがファウストを堕落させられるかで賭けをするところから始まります。この点は完全に抜け落ちていて、原作の「良い人間は暗い衝動に駆られても、正しい道をそれなりに進むものだ(池内紀訳。以下同出)」という神のセリフはファウストの父親のものになっています。この父親はファウストがお金を借りにくれば断るし、ファウストが空腹なのに食べ物を与えることもしません。どうやら医者のようですが、荷馬車の檻のようなものに入れられた天然痘患者らしき人物を見ればうろたえるばかり。この父親は原作には登場しないのですが、彼が何であるかは明白でしょう。

弟子であるワーグナーとファウストとの会話では、はじめに言葉ありきというヨハネ福音書の有名な書き出しに関しても、ファウストはこれの意味が分からずに「言葉ではなく認識があったのだ」と語っています(セリフはうろ覚え)。この点では、原作では逆で認識とはワーグナーが言い出したものです。
ワーグナー:
人の世があってこそ心も精神も意味があるのです。そこから認識がはじまります。 
ファウスト:
どうあっても認識といいたいのかね。いちどはほんとうの名で呼んでみてはどうなんだ。どれだけの人が、ちゃんと認識したにせよ、それを胸の奥にしまっておけず(中略)そのあげく、はりつけにされたり火あぶりになったりしたものだ
映画のなかでファウストは認識認識としつこく何度も語っています。「はじめに言葉ありき」というくだりは、この世を形作っているものは全て神の言葉より発しているといった意味と理解していますが、ここでファウストは人間の認識がはじめにあると言っています。(この点は、あくまで日本語訳を比較しているので、ドイツ語でちゃんと比較するとピントを外しているかも知れません。強調されていたのでそう「認識」しています。)

ソクーロフの権力者シリーズでは、レーニン、ヒットラー、昭和天皇のそれぞれを超越的な支配者としてではなく、ひとりの人間として描いている点があります。昭和天皇の『太陽』が、実話も相まって一番分かりやすいですね。『ファウスト』では、はじめにあったのは人間の認識です。彼らのカリスマが成立するためには、周囲の人間が彼らを祭り上げることで多くの人に彼らがカリスマであると認識させる必要があります。例えば、スターリンの天然痘の跡は写真の上で綺麗に修正されていました。

『ファウスト』ではこれが裏返しになっていて、メフィストフェレスは、カリスマを生む従者のようにファウストに様々な覆いを被せようとするのですが、すれ違いを繰り返します。マルガレーテの兄の葬式に「ある紳士からの」お金を持っていって演出をしようとしても、ファウスト本人が葬式に出向いてマルガレーテにちょっかいを出したり、薬を呑まされた母親が死んで冷たくなっていく横でマルガレーテと寝たりする始末。倫理観とか道徳というものがないんでしょうかね。

その後、ファウストとメフィストフェレスとは第二部にあるように旅に出るのですが、ファウストに甲冑を着せて馬に乗せるという、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係を逆さまにしたような場面があります。その鎧も、ファウストに劇場のオーナーからの借り物(偽者)だと見抜かれて脱ぎ捨てられてしまいます。

撮影場所は恐らくアイスランドに移っていると思いますが、巨大な間欠泉を目の前にして、ファウストはこの泉を作ることが自分の目的であると悟ります。熱いものは上昇し、冷えたものは下降する原理を利用するのだと。これは原作で干拓に乗り出したのともまた逆に、終わりなき運動を続けることを宣言するようです。時が止まることはないということか、ファウストはメフィストフェレスと完全に決別します。悪魔との契約書まで破り捨てるとは大したものですが、やりたい放題もここまで来ると笑うしかありません。そして荒涼としたフィヨルドも物ともせずに突き進んでいきます。

これまでの3作で、ソクーロフは権力の喪失の瞬間とその力の源泉を描いてきました。しかし、ここでファウストはその力の源泉すらも脱ぎ捨てて自律運動を始めます。特に言及しませんでしたが、原作では純粋な精神として存在していたホムンクルスも、本作では瓶詰めが割れて、一言も発する前に死んでしまいます。ついでに言えば、ファウストは作品中、一度もものを食べていません。冒頭からずっと空腹です。

精神と道徳を欠き、餓えた、自律した力が無限に上昇と下降を繰りかしていく姿を、レーニンやそのお師匠辺りが見たら何に例えるでしょうか。恐らくそれが、伝統的な意味での権力を揺さぶっているものの正体なのでしょう。

2012年5月25日金曜日

Noel Gallagher@武道館

最後に生でオアシスを観たのが2000年頃の横浜アリーナ。そのときのことで憶えているのは、前座で出ていたノーザン・ブライトが野次られまくっていたことと(かなり可哀想だった)、Gas Panic!が素晴らしかったこと。


そういうわけで、12年ぶり?の生ノエル。セットリストは下記だそうなどっかでSad Songが挟まってた気がするけど)オアシス時代の曲は通好み的な、どっちかといえば地味な曲が中心。このなかでは、Supersonicのアレンジがとても良かった。アラン・マッギーがどうのと喋っていたけど、どうやら会場にいたらしい。といっても顔知らないんだけど。


最後に、終幕する気ゼロのアンコールでのWhateverからの流れで完全にやられた。反則でしょうこの並びは。完全に掌の上で弄ばれるファンの図。

01. (It's Good) To Be Free (Oasis cover) 
02. Mucky Fingers (Oasis cover) 
03. Everybody's on the Run 
04. Dream On 
05. If I Had a Gun... 
06. The Good Rebel 
07. The Death of You and Me 
08. Freaky Teeth 
09. Supersonic (Oasis cover) (Acoustic) 
10. (I Wanna Live in a Dream in My) Record Machine 
11. AKA... What a Life! 
12. Talk Tonight (Oasis cover) 
13. Soldier Boys and Jesus Freaks 
14. AKA... Broken Arrow 
15. Half The World Away (Oasis cover) 
16. (Stranded On) The Wrong Beach 
---encore--- 
17. Let the Lord Shine a Light on Me 
18. Whatever (Oasis cover) 
19. Little By Little (Oasis cover) 
20. Don't Look Back In Anger (Oasis cover) 


あちこちでのライブがyoutubeに上がっていて、これなんかいいなあと思う。12m30sからのSupersonicがいい。



2012年5月15日火曜日

Moses Core

ちょっと気になるニュースが。

EUが資金援助、自作の機械翻訳システムが作れるオープンソースプロジェクト「MosesCore」が本格スタート

MosesそのものはオープンソースのSMTエンジンとしてよく知られているので、特にどうということはないのですが、この記事だけだといまいち何なのか分からないですね。Moses Coreのウェブサイト(リンク)を見ると、下部にこうした記述があります。
"MosesCore is supported by the European Commission Grant Number 288487 under the 7th Framework Programme"
まず、このMoses Coreを支援している"7th Framework Programme"は、リスボン戦略(リン12)という知識経済の振興を目的としたEUの経済戦略に基づいて進められているようです。これ自体、読んでいてなかなか面白いですね。

プログラムの詳細はEUの日本語サイト(リンク)にも掲載されています。Moses Coreについて特に言及はありませんが、PDFを読んでいくと、ICTの推進という辺りで微妙に気になる表現が。
-ソフトウェア、グリッド、セキュリティ、信頼性-ダイナミックで順応性・信頼性も高 いソフトウェアと各種サービス、また、新種の処理アーキテクチャ(ユーティリティとして提供されるものも含む)
この手の官僚ドキュメントの読み方に通暁しているわけでもないのですが、色んな情報を仕入れた上で読むと、あー、まあ、そういうことなのかなあ、という部分はあります。

ちなみに、"European Commission Grant Number 288487"でググると北京で開催されたTAUSの記事も出てきます(リンク)。ウェブサイトよりもこっちの方が分かりやすいですね。Mosesに関しては、ダウンロードして遊んでみて放置していたのでGUIで使えるようになると助かるのですが・・・

2012年5月14日月曜日

巨人の肩の上から - TAUSと日本

過去に自分の書いた色々な文章を整理していたところ、TAUSに初めて参加したときのものが出てきました。我ながら多少気の利いたことを書いていたので、再構成してアップします。

先日のTAUS Tokyoでも壮大なヴィジョンが提示されていましたが、2年前のもっとシンプルなものでした。動画がyoutubeに上がっています。


音声抜きで絵を見ているだけでも何となく理解できると思いますが、ここでは、翻訳という行為を、異言語間での情報の集積と伝播の過程のなかで継続して用いられてきた技術として捉えています。

その上で、雲(クラウド)に届こうというバベルの塔や、世界最古の対訳コーパス(翻訳メモリ)としてのロゼッタストーンなど、よく知られたものを現在の文脈で解釈しています。特に、翻訳メモリなどは馴染みのある人にとっても最近登場してきたものとして受け取られがちですが、その発想は文字が発明されたときからあったわけですね。

そういえば、翻訳メモリを開発したのは、ロゼッタストーンを解読したシャンポリオンの子孫だという噂を聞いたことがあります。真偽は分かりませんが、面白い話です。ロゼッタストーンを対訳コーパスとして捉えると、翻訳メモリの開発者は、血縁的な意味での子孫というよりは、シャンポリオンの仕事を受け継いだというのが正しいのかも知れません。

「巨人の肩の上に立つ(Stand on the shoulders of giants)」という言葉を思い出します。特にアカデミックな世界ではよく使われると思いますが、先人の築いてきた知識の上に新たな知見を加えていく姿勢を指したものです。動画を見ると、TAUSのこのヴィジョン自体が、シナイ半島から発するヨーロッパ的な文化と歴史の上に築かれているものであることがよく分かります。もっとも、エウロペは巨人ではなくて女神ですが。いや、デカイのかも知れませんが。

今年のTAUS Tokyoでは、このヴィジョンも更にグレードアップしていました。詳細はいずれ公開されたときにでも、と思いますが「人権としての翻訳」など、やはりヨーロッパ(というか、EU)に根を持つ発想ということは改めて思いました。

日本でこうしたものを作れるのかという点では、文明論的な話にもなるのでわたしには少々手に余るところもあるのですが、こうした形で、翻訳とはいかなる意味を持つものかを問い直すことは非常に重要なことと思います。311以降の日本は、どうも現実が勝ちすぎるきらいがあって、そろそろ、そこから離れた思考というものも必要な時期だと思います。

2012年5月12日土曜日

地図を更新すること - 『三つの旗のもとに』

ベネディクト・アンダーソン、『三つの旗のもとに―アナーキズムと反植民地主義的想像力』が出版された。原著は持っていたがなかなか読み終わらなかったし(およそ3年放置)、読解のためには日本語の方がやはり助かる。
タイトルにある「三つの旗」とは、フィリピン独立のための秘密組織である「カティプナン」、キューバの旗、そしてアナキズムのシンボルである黒字にAの文字が白抜きで入った旗を指している。要約の難しい本だが、電信や交通手段の発達によって発生したアナキスト同士のネットワークの視点からグローバリゼーションを捉え直すのが大きなテーマの一つとなっている。

キューバで起きた反植民地運動と武装蜂起の1年後に、それに呼応するようにフィリピンでもナショナリストの蜂起が行われる。これらを繋いでいたのがアナキズムであるというのが、基本的な見とり図である。国境を明確な区切りとして捉えるとき、ナショナリズムとアナキズムとは相反するものとして位置づけられるが、人と人の繋がりとして捉えたときには別の意味をもってくる。

本のなかでは、フィリピンでの反植民地運動と日本との関係の例として、独立運動によりスペインから弾圧され横浜に亡命していたホセ・リサールと、自由民権運動家でありジャーナリストであった末広鉄腸との交流が登場している。リサールに関しては日比谷公園に胸像があるものの、末広鉄腸などは日本史の教科書には滅多に登場しない人物であり、こうした周縁的な存在であった人物が浮かび上がってくるのはこの本の特に興味深い点である。
通常、新聞などで見聞きする、一般名詞として用いられるグローバリゼーションという語は、もっぱら経済活動としてのそれに意味が限定されている。しかし、アンダーソンのいうグローバリゼーションは、ある場所で生まれた理念や思想がローカルな土地で固有の意味を持ちながら、人々を駆動していくプロセスを指している。上記の末広鉄腸とホセ・リサールの交流などはその典型的な例である。
読みながら、以下の図を思い出していた。『デザインのデザイン(原研哉)』に載っていたもので、関連のテキストごと引用する。
これは僕がよく例に挙げる図で、高野孟(たかのはじめ)さんの「世界地図の読み方」という本を参照したものですが、ユーラシア大陸を90度回転させてみますと、ユーラシア大陸はパチンコ台に見立てることができます。

そうすると、日本はちょうど受け皿の位置にきますね。一番上の方にはローマ。文化はシルクロードを通って、中国、朝鮮半島を経て、日本に文物が伝わったと、一般的には言われていますが、当然パチンコの玉は跳ね回りながら進みますから、ある一定のルートからだけではなく、いろいろな方向を進みます。文化もそうじゃなかったかと思うんです。インド経由で東南アジアから海のシルクロードを通ってきたものも当然あるだろうし、ロシアのほうからカムチャツカ半島や樺太を経て入ってきたものもあると思います。椰子の実のように、ポリネシアの方から漂着したものもあるかもしれない。つまり、日本というのは世界中の文物の影響にさらされてきたのです。


文化の流れを強調するため、ローマを頂点として日本まで流れる図になっているが、実際にはこれらの関係は双方向であり様々な繋がりがある。それでもこの図が重要なのは、視点の転換を見事に表しているからだ。

この図や、アンダーソンの観点でグローバリゼーションを見ると、経済のグローバリズムでよく言われる2極化、金融資本やグローバル企業が軽やかに国境を超えていく動きと、国境なき市場で行われる激しい競争から脱落したり、参加できない人間がローカルなコミュニティのなかに閉塞していくことの対比という構図が、かなり矮小化されたものであることが理解できると思う。


これは一断面ではあるが、全てではない。より豊かなものを引き出していけると思うし、またそうしなければならないそのためには、貨幣の動きだけを追うのではなく、人と人の交流や、電信によって情報の拡散が容易になった結果、テロリズムが世界中で連鎖することになったような、新しいテクノロジーがもたらす結果や効果を検証し、追いかけていくことが重要なのである。

地図を90度回転させるだけで、世界はずいぶんと違って見えるものだ。ここに二重三重の意味を重ねていくのは、これから自分がやらなければならないことだと思う。そのためには、日本語と英語だけではどうも狭い。

2012年5月7日月曜日

言語による論述スタイルの違いについて

今年のGWは引きこもって読書と考えていたが、最終的には1500ページぐらいだった。

読む本にもよるのでこれで多い少ないはあまり意味がないけれども、多読しているよりも一冊をちゃんと読んだ方がいいような気もする。ただ、一冊を「ちゃんと読む」というのは難しくて、関連する本を並べながら共通する部分を取り出して差分を整理していく方が、少なくとも自分にとっては効率が良い。また、本というものは常に他の本との関わりのなかに存在しているので、一冊だけ読むというのはそもそも、あまり意味のない話であったりもする。

読もうと思っていたジャック・ドンズロの『都市が壊れるとき』や、構成主義の勉強でピアジェの本など読もうと思っていたが、進まなかった。どうもフランス圏の本は読みにくい気がする。表現やレトリックの問題もあるかも知れないが、これはフランス語特有の記述の方式もあるんじゃないかと思ったりもする。



カプランによる、各言語のコミュニケーションや記述のスタイルをまとめたこの図はけっこう面白い(なぜか、ずっとフーコーだと思い込んでいた)。それぞれの言語には複数の言語が含まれていて、例えばEnglishにはドイツ語、オランダ語、ノルウェー語、デンマーク語、スウェーデン語などが含まれる。これらの特徴をまとめると、

  • 英語:テーマから話が脱線したり、主題から離れることはなく直線的に進む
  • セム:テーマと、それに対置される考えの間を行ったり来たりする
  • 東洋:直接的でなく、テーマの周りを様々な視点から語る(日本語、中国語など)
  • ロマンス:しばしばテーマから脱線するが、脱線もまた豊かさのなかに含まれるため問題ない(フランス、イタリア、スペイン、ルーマニアなど)
  • ロシア:ロマンス語と同じようにしばしばテーマから脱線するが、テーマに対置される考えも含む

フランス人やイタリア人の話に脱線が多い、というのは話をしていると確かによく感じることで、笑える点ではある。むしろ、あいつらほぼ脱線だなと。

実際のところ、この分類はインド・ヨーロッパ語族の上での分け方に合わせた方が分かりやすい気がするが、これらの言語の成立の流れ、ギリシャ語からロマンス語(ラテン)とロシア(キリル系)に分かれ、ロマンス語から英語へと言語が発展していった流れを考えると納得できるものがある。

文字の上でもアルファベットとキリルで分岐している。宗教上のことも、ざっくり分けるとカトリックと正教徒とで分かれるのではないかと思う。ルーマニアは正教徒なので、言語と一対一で対応しているわけではないけれども。

翻訳について考えるときにも、この論述スタイルは考慮しておく必要がある。多くはドキュメントの構成の段階で決まるものだが、この分け方でいえば、テクニカルコミュニケーションというのは英語のスタイルに近いものになっている。単線的で、誤解を産まない表現が求められる。

日本語で書いたPR文などは、翻訳しても使えないというのが業界では定説になっていると思うが、恐らくこの記述スタイルの問題がある。ひとまず英語に訳した上で再構成するという手段が取られることが多いが、多くのサンプルで比較してみると、上記のグルグルをまっすぐな↓に近づけている部分があるのではないかと思う。

2012年4月30日月曜日

caf´eから時代は創られる


caf´eから時代は創られる(飯田美樹著)』を読了。面白くて一気に読んでしまったのですが、刺激に満ちた読書でした。


まともな書評については、中原先生のブログ(リンク)を読むのが良いと思います。

タイトル通りカフェに関する本ですが、いわゆるカフェ本ではなく、ピカソや藤田嗣治、アンドレ・ブルトン、モディリアニらの新しい才能を生みだす場として成立していたカフェについて書いた本です。

ここでいう「カフェ」とは、後世に天才と称されることになる人物達が、独立した才能としてはじめから存在していたのではなく、なにかしらの場や人々との繋がりを通して天才に「成って」いく場、中井久夫氏の云うところの小集団現象としての天才を生み出す場です。

特に興味深かったのが、女主人の運営するサロンと、商売として営業しているカフェとの比較を通して、後者が上述のような場として機能した理由を分析したくだり。

サロンでは、女主人が自らの私財を投げうって料理や飲み物を来客へ提供していることから、その場で交される議論に純粋なプレイヤーとして参加できないために、色々な配慮や軋轢が生まれてしまう。その反面、カフェの店主はあくまでもサービスの提供者であり続け、そこで繰り広げられる会話の内容には深入りしないために議論が深まっていったとのこと。

この本のなかでは、未来の天才たちが共通に持っていた、自分の考えを簡単には人に明かさない点が強調されています。これは過去に彼らが周囲や社会との摩擦のなかで身に着けた特質ですが、この点を考慮すると、店主が口を挟んでくるなかでは議論が深まる前に口を閉ざしてしまう結果が簡単に予想できます。

もちろん、趣味でやっているサロンと、ビジネスでやっているカフェとでは主人の関わり方が異なってきますが、積極的に介入しない方が上手く回るというのは興味深いですね。こういう現象は、色々なところで見られます。

網野善彦的にえば、サロンは有縁の場であり、カフェは無縁の場です。

サロンにおいて、その場を取り仕切っている女主人へ反対意見を表明することは、その関係に含まれている偏っていた部分(恩着せ)が負債に転化してしまう可能性があります。分かりやすく言えば、縁がしがらみになってしまう。

反面、無縁の場であるカフェにおいては、コーヒーやパンの代金を払った時点で、既に店主と客との関係は完結しているため、しがらみに転化するような強い縁が生じることはありません(繰り返せば発生しますが)。

大名達からも特権を認められた、無縁の自由都市である堺が発展し、巨大な富が生まれ、千利休を代表とした茶の湯が生まれてきたことと、あぶれ者であった芸術家達が集まって切磋琢磨しあいながら才能を開花させていったカフェとは相似形を描いていないでしょうか。

なんだか話がズレましたが、有形無形を問わず、何らかの「場」を作ろうとするに当たっては様々なインスピレーションが得られる本です。とりわけ、

2012年4月26日木曜日

LEGO Serious Play™ その4 構成主義、モンテッソーリ教育、Googleの創業者たち

Lego Serious Playについて、これまではその効果や価値について書いてきましたが、源流を辿ってみることにします。

はじめに言ってしまうと、LSPは構成主義 (Constructivism) の考えに基づいて作られたメソッドです。構成主義について真っ向から書こうと思うと哲学の世界に迷い込んでしまって、そうした議論になると自分の手に余るのですが、基本的な考え方としては、人間が自分の環境をどのように認識(構成)していくかを問うたものです。

教育的側面から見ると、学習というものを、教師から生徒への体系だった知識の伝達と考えるか、あるいは生徒が自力で物事を発見していく過程として捉えるか、という問題です。伝統的な学校教育が前者であるのに対して、構成主義は後者の立場にあります。

構成主義における学びとは、学習者があらかじめ持っている知識や興味を出発点として、ある理解を構成する特色と経験との間の相互作用として立ち上がるものとされています。言い換えると、出来上がった客観的、体系的知識を教師が植え付けるのではなく、学習者それぞれが持っている情報と学ぶ内容を紐付け、意味付けていくプロセスということになります。ここでは教師は生徒を先導するのではなく、その学習を促すファシリテーターという位置づけです。

こうした構成主義の考え方について、学習者が体系的な知識を身につけるには十分ではない、という批判や反駁を予想することは簡単にできます。もちろん、現実には体系的学習と、発見的学習とのバランスを見ながら実践していくことになるのでしょう。そして、その実践者としては貧困層や知的障害児への教育を行なっていたマリア・モンテッソーリという人物がいます。

マリア・モンテッソーリの名前を聞いたことのない人でも、彼女の考案したモンテッソーリ教育について聞いたことがあるかも知れません。特にここ数年、Googleのセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、Amazonのジェフ・ベゾス、wikipediaのジミー・ウェールズなど、今のウェブ業界の巨人達がモンテッソーリ教育を受けていたことは有名な話です。Googleについての秀逸なルポルタージュ、"In the Plex(グーグル ネット覇者の真実)"でもこの事実は繰り返し強調されています。

恐らくこれは偶然ではなくて、以前にも書いたブリコラージュ的な方法論というのは、プログラミングと親和性が高いのですね。そして、レゴに関して言えば、LSPよりも前に、ピアジェと親交のあったシーモア・パパートという学者が、レゴ・マインドストームというレゴとプログラミングを組み合わせたおもちゃを開発しています。

この人がまたMITの教授であったことからも、アメリカの知的潮流の底流を見たような思いがします。実はわたしもモンテッソーリ教育を受けたクチですが、構成主義についてももLSPのトレーニングを受けてから知ったものですし、LSP経由でもう一度モンテッソーリに戻ってくるというのは、とても奇妙な感じがします。宿命的なものすら感じられるというか。

2012年4月22日日曜日

Studio2009はAK-47か

業界のデファクト・スタンダードのツールであるTrados。Studio 2009になってからインターフェースと設計思想ががらりと変わったせいで拒絶感を示すユーザがいました。未だに使っていない人も多くいます。

自分もあまり好きではなかったのですが、理由をよくよく考えてみると、作成者の想定した使い方しかできない(少なくともはじめはそのように感じられる)ことが根本にある気がします。

プロジェクト管理の視点のみで語ると、2007までのTradosは、洗練はされていないものの、WorkbenchとTagEditorの個別の機能を組み合わせると色々なことができました。「色々なこと」のなかには、試行錯誤できるパターンの数やバッドノウハウも含んでいます。結果として、受け取るファイルのデータ構造やテキスト配置が整理されていなくても、系全体としては何となく処理できてしまう特性がありました。

AK-47が過酷な環境でも動作するという話(リンク)は、これに近いものがあります。ゆとり、疎結合、遊び(可動範囲)といった領域をとっておくと変化へ対応できる可能性が増える。逆に系を構成する部品たちの精度と緊密性が高まると、意外と簡単な問題で躓いたりする。

この意味で、Studio2009を単独で見るとイノベーションのジレンマに陥っているように見えるのですが、TMSなどにより原文データが整理されたものになれば、一概にそう言えるものでもないのですね。いつまでもジャングルでゲリラ戦をやってるわけにもいかんので、別の戦場で戦いましょうというのが開発側の基本的な考えです。

しかし、より重要なのは、Studioが連携を図るTMSなどのシステムは、特定の課題を解決するためのツールとは異なり、多くの場合においてローカリゼーション・プロセスのリエンジニアリングを意味するものであるという点でしょう。

2012年4月18日水曜日

機械翻訳と茶色抜きのm&m's

昨日の続き。用語集がないことは、いったい何が問題なのか?

単に翻訳がし辛い(人間が訳すにしても、色々な固有名は難しい)というのはありますが、定訳の用語集がないということは、ウェブに掲載された情報と、実際のイベント会場やその周辺とで、同じものに対して異なる名前がつけられる可能性があるということです。

今回問題になったのはウェブの翻訳でしたが、これはお客さんを集めてくる導線の一つです。言ってみれば、ウェブの情報を見た人をどのように現場に連れてくるかという設計が抜け落ちているということですね。本当の問題はこちらで、機械翻訳をそのまま使ってしまったというのは、あくまで表に出てきた問題の一部に過ぎません。

用語集一つで大げさでしょうか。ヴァン・ヘイレンがライブハウスと締結した契約書の付帯事項には、「茶色の粒を抜いたm&m'sを準備すること」を要求する文言が入っていました。



ステージセットが巨大化し電力や安全面での配慮が不可欠となっており、契約書が長大なものになっていたため、きちんと全文読み込まれて対策がなされているかのチェックポイントとして使用されていたということです。そして、この一見つまらない項目が守られていないようなら、全面的に再点検をさせる。そうすると、どこかで問題が発見されたそうあ。もう少し詳しい話は、ここ(リンク)とか英文wikipedia(リンク)などで。

翻訳に戻ると、しばしば巨大なスタイルガイドを運用しているクライアントに遭遇することがあります。「本当に全部守るんですか」と尋ねると、「重要なポイント以外は全てをきちんと守る必要はない」という回答が来ることが経験的には多かったです。恐らくこれは茶色のm&m'sとして機能することを期待しているのではないかと思います。本当に全部守れという場合もありましたが。

「重要なポイント」がどこか分かるようなら信頼に足るし、そうでなければ要注意。分かりやすいですね。腕の良い翻訳者の方は、大抵はスタイルもいい具合に合わせてきます。とりわけ多言語プロジェクト回す際に、スタイルを守れているかという点は、茶色のm&m'sだと考えています。

この点は、機械翻訳の運用について考える際にも重要な点です。

機械翻訳があまり使えないというのに、何でGoogleを始めとした企業が開発と導入を進めてきたのかといえば、文法構造が近い言語同士では、それなりのアウトプット(読んで内容を把握できる程度の)ができるようになったからです。

従来の辞書と文法をベースとした機械翻訳(RbMT)とは別に、膨大な量の対訳集(正解の訳例)を統計的に解析して結果に反映する方式の機械翻訳(SMT)が、コンピュータの処理能力の向上とともに品質を上げてきました。

技術的に細かな点は割愛して、SMTの特徴はRbMTと比べて自然に読める文章が出力されるというものです。これはこれで進歩ですし、良いのですが、茶色のm&m'sの観点からすると、人間が読んだときに自然な文章が出力されている分、内容にマズいところがあるのではないかというセンサーが働かなくなる可能性があります(蛇足ながら、これはわたしが美文家を信用していない理由でもあったりします)。

過激派からは、人間の感覚を鈍らせるような機械じゃ補助にならないから捨てちまえ、というようなセリフが聞こえてくるような気がします。この点については、恐らくポストエディットが広まるうちに問題となってくると思うのですが、茶色いm&m'sはあるのでしょうかね。プロマネ視点ではそこが気になります。

2012年4月17日火曜日

機械翻訳、言語空間、翻訳のコモディティ化

こういうニュースがありました。

秋田→飽きた ナマハゲ→はげ頭病 「機械翻訳で…」誤訳多数 観光庁が東北観光博サイト閉鎖


ビジネス倫理的な部分で話にならないのは確かですが、ここに出てくる「IT企業」が観光庁に対して何を納品する契約になっていたのか。高品質の翻訳なのか、それとも自動翻訳機能のついた多言語ウェブサイト(あるいはシステム)なのかによって、話は違ってきます。わざわざこんな退屈なことを書いたのは、ここに出てくる「IT企業」と翻訳者では扱っている商材が異なるから。

そもそも、機械翻訳という言葉の理解が、業界内でもバラツキがあるというのが現状かと思います。こうした状況で外部に対して「正しい理解」を求めるのは難しいです。

で、機械翻訳の意味とはといえば、世の中的には人間の行なっている翻訳作業を代替する技術と理解されていると思います。業界内では、人間の行なっている翻訳作業の一部を代替する技術という認識が広まってきていると思います。

現在注目されている手法は、機械翻訳のアウトプットの結果を人間が修正して仕上げていくものです。言い方を変えると、機械と一緒に翻訳をしていく、あるいは機械翻訳の結果をインターリンガとして用いるという方法です。この場合の機械翻訳は、ひとつの技術というよりは、手技と機械の混成体です。
※そんなわけで、機械翻訳という名前自体が、誤解の元になりつつあるというのが現状です。それが有効となる文脈外で使われた結果でもって、「機械翻訳なんて使えないや」というのは、開発者の方にとっても不幸な結果を招きますし、将来役立てることのできる可能性を狭めてしまうので、どんなものかなと思います。しかし別の言葉がないものかと思うのですが、無いのですね。上述の、人間が修正して仕上げる工程はポストエディット(事後編集)と呼ばれていますが、これもまたより適切な名前が見つけられるべき言葉だと思います。
なぜそうなるかは、翻訳という行為の定義にも関わってくるところです。ある言語の情報を他の言語に移し替える際には、単語の用法や文法などのある程度定まった諸規則の他に、時代や文脈とともに変化する言葉や文体の流行り廃り、それらの選択基準を考慮する必要があります。

これらの総体を、プログラミングでいう名前空間のようなイメージで、とりあえず言語空間と呼びましょうか。ともかく、最終的にターゲット言語空間の「どこ」に落としこむかの判断は人間にしかできません。完全な機械翻訳は、今のところ存在しません。そういう人工知能でも開発できれば別でしょうが。

この探索を行う空間の広さ(狭さ)が翻訳の鍵であり、読み手にとっての解釈の余地の問題です。クリエイティブな文章というのはこの探索する空間が広い、あるいは空間そのものを拡張しているものだと思います。一方で、産業翻訳では文書の構造と、文節内での用語の定義やスタイルを決めることにより、探索する空間を限定しようとしています。ここまで来れば見当がつくと思いますが、機械翻訳がどのような内容のものに適しているのかといえば、この言語空間が限定されたものです。

問題になった東北の件などは、「秋田→あきた」という言い替えに特徴的なように、解釈の余地が広がる表現を用いているので、当然ながらブレが出やすいです。人間なら「あきたは秋田の書き下し」であると文脈から推察できますが、機械にはできません。担当した会社は用語集(というよりは定訳集でしょうね)を請求したのもこうした背景あってのことです。とはいえ、往々にしてこういう場合に用語集、無いものです。わたしもよく砂を噛みました。(これについては、こちらで)

個人的には、ここで述べているようなテクニカルな点を除いても、いずれどこかでこうした問題は起きるだろうなあと思っていました。短納期や低単価の案件に限らず、明らかに機械翻訳を使った成果物に出会ったことが何度もあり、チェックが甘ければ流出する可能性は十分にありました。

そもそも、翻訳は買い手が納品物に対する評価を適切にできない可能性が出てくることから(特に多言語を扱っている場合には)、レモン市場になりやすい特徴を持っています。全体としてそうなっていないのは、翻訳者をはじめとした関係者の職業倫理で支えられている部分が大きいと思います。ただ、それも色々な要因で崩れやすくなっていますし、そもそもが全員に期待するべきものでもありません。

とはいえ、それを嘆いていてもしょうがない。個人的には、翻訳(特に産業翻訳)はコモディティになりつつあるのだと思っています。その上で、市場の動きとしては、コモディティに対してはそれがもたらす機会よりもリスクに敏感になるものですので、ビジネスとしてやっていく上ではそこが鍵になるのだろうと思います。

2012年4月15日日曜日

TAUS Tokyo Exective Forumによせて

4/19-20と、TAUS Tokyo Executive Forumが開催されます(リンク)。

TAUSそのものは、Translation Automation User Societyの頭字をとっています。その名の通り、自動翻訳の活用や普及の促進をテーマとした組織です。この自動翻訳という表現は若干トリッキーなので注意が必要なのですが、似たような意味で使われている言葉として、機械翻訳があります。

TAUSはあくまで自動翻訳がメインで、機械翻訳ではありません。ここでの自動化と機械化の差とはなんでしょうか。わたしの考えでは、機械翻訳が人間の行なっている翻訳作業の一部を代替する技術であるのに対し、自動翻訳とは翻訳の前後の工程を含めたローカリゼーション工程全体の自動化するシステムです。(これらについては、もう少し詳しい話を別記事にする予定です)

この違いは、TAUSのウェブサイトにも掲載されている下記のロードマップにも表れています。MTの後ろにTranslation Automationがきていますね。


さて、TAUSには色々や個人が参加しており、大別すると下記の4つになると思います。
  • 翻訳発注を行う企業
  • 翻訳を受注する企業(翻訳会社)
  • 翻訳者
  • 機械翻訳の研究者
わたしの所属はこのうち2番目の翻訳会社です。それぞれに自動翻訳や機械翻訳に期待しているや関心を寄せている点は異なりますが、わたしの関心はといえば、機械翻訳や自動翻訳は破壊的技術となり得るのか、という点に集約されます。儲かるかどうかはひとまず棚上げしています。

機械翻訳について言えば、コールセンターにとってブラック・スワンとして機能した実績があります。具体的にはヘルプ情報をオンラインで提供している企業の例となりますが、そこではヘルプの情報が原語(英語)のドキュメントを機械翻訳で各国語訳したものと、そのなかで問い合わせの多いものについて人間が修正を行ったものが提供されています。そして、いつでも原語のリンク先に飛んでいけます。

これがもたらした結果は、コールセンターへの問い合わせの減少でした。10%単位で減ったと聞いています。当然ながらコールセンターの縮小に繋がりました。コールセンターの運営を請けていた会社にとっては青天の霹靂だったのではないかと思います。

コールセンターの事例は、翻訳の価値やROIを考える上で重要な例となります。ヘルプ情報に機械翻訳を使ったきっかけは、全ての情報を人力で翻訳している時間も費用も無かったのだと思いますが、結果としてコールセンターの費用という軸が加わったことで、"人力翻訳vs機械翻訳"の前に"ヘルプによる情報提供vsコールセンターによる情報提供"に土俵が変わりました。場合によっては、ここに”CGM的メディアによるユーザ同士での情報交換”が加わるかも知れません。

こうしたことは、ミクロの技術的な詳細からマクロな市場の話まで、俯瞰しながら行ったり来たりしないと考えがなかなか深まりません。GALAにせよ、今は亡きLISAにせよ、この手のカンファレンスが日本で開催されることはあまりないので、とてもありがたい機会です。

2012年4月13日金曜日

生活考察

『生活考察』という雑誌があります。

たまたま存在を知って手に取ったのですが、抜群に面白いです。発行人の方は、普段は派遣で働きながら一人でこの雑誌を作っているとか。

名前のまま、生活について考察する雑誌です。発行人の方の言葉を借りてきましょう。
本誌は、タイトル通り、〈生活〉について考えることをテーマにしています。 
よって、“ある種の”ライフスタイル・マガジンではあります。 
しかしながら、いわゆる定石の「理想の生活」「ワンランク上の生活」及び「理想の生活を実現するためのアイテム」等にとりわけ重きを置きません。 
かつ雑誌をあげて提案する「スタイル」もとくに持ち合わせておりません。 
むしろハナから「スタイルの提案」を放棄し、積極的に多様なスタイルにまみれてみること――そこから、現代を“楽しく”サヴァイヴするための術・発想・考え方を模索していきたいと考えております。 
実用的な情報ばかりにとらわれ、「考えようによっては得るところがある」かもしれぬ〈何か〉を取りこぼさないように。 
「生活考察」は、〈生活と想像力〉をめぐる雑誌です。

表紙はこんな感じです。



インディーズ雑誌の割には執筆陣がいやに豪華です。内容はといえば、「生活のなかの○○」などといった形でテーマが限定されていないせいか、皆さんそれぞれ自分の生活をそのまま書いたり、生活についての考えを書いたりと、十人十色です。

どれも読み応えがあって面白いのですが、個人的には、「わたしの Music for Dishwashing」という、皿洗いをするときにかける音楽についての懇談が好きです。エイフェックス・ツインを聴きながら皿は洗えないとか、『ボーン・スリッピー』を聞くと皿洗いをしたくなるとか、しょうもないようで実は深い話が繰り広げられています。

上の引用のなかで、サヴァイヴというキーワードがあるのは、とてもいいなあと思います。生活というのは、ミニマムなところでは単純に生きていくだけですが、お腹は減るし、何かと物入りだし、従ってお金はかかるし、面倒な用事はあるし、外出が億劫なこともある。

彩りは必要ですが、彩るものでもないし、ある目標に向かって生活の全て調整していくなんてのも息苦しくてやってられないわけで、のらりくらり、どうにかこうにか日々をサヴァイヴしていくというのは、わたしの生活実感に近いものがあります。

といいつつ、そんな肩肘張ったところもなく、緩やかに読めます。扱っている本屋は<ここ>で確認できます。

ターミネーター誕生?

は、大げさにしてもけっこう怖いですねこれ。再帰的ライフゲーム。

『火の鳥』の未来編でマサトが無限大/無限小へのダイヴに付き合わされて衝撃を受けていたシーンを思い出しました。

学生時代、複雑系とかにハマっていた時期があって、ライフゲームについてもカンブリア爆発を起こすんだとか、そういう研究を行っている人がいるのを覚えてましたけど、久しぶりに見ると随分と進化してるものだなと感心しきり。


レゴのマインドストームで作られた自動車工場を見たときにも、やっぱりターミネーター生産工場かと思いましたが、ライフゲームの方が勝手に進化していく分、怖さがあります。


2012年4月11日水曜日

LEGO Serious Play™ その3 偶然と模倣のあいだ

シリアス・プレイって、何だか妙な表現ですよね。なんだ?シリアスなプレイって。ふざけてるのか。責任者を出せっ。

この場合のSeriousは、本気とか本格的といった意味合いで、真面目とか厳粛とかいう意味ではありません。Playの「遊び」は、機械の可動範囲などの遊びや、レクリエーションを意味するものではなく、子供のやる遊びです。ただし、「遊び」とは何か、ということになると、明確に応えるのが難しいものでもあります。反対側から眺めてみると、ブライアン・サットンスミスによれば、遊びの対義語とは、仕事や業務ではなく抑圧だそうです。

「遊び」と人間の関係といえば、ホイジンガのホモ・ルーデンス論やロジェ・カイヨワが思い浮かびます。カイヨワは『遊びと人間』において、遊びを下記の4つの要素に分類しました。

  • アゴン:競争
  • アレア:偶然
  • ミミクリ:模倣
  • イリンクス:眩暈(めまい)

競争と模倣は何かを構築するものであり、偶然と眩暈は状況を流動化させるものです。どこか左脳と右脳の違い、あるいは前回の記事のエンジニアリングとブリコラージュの違いを思い起こされます。ちなみに、分類しているといっても、特定の遊びがどれかに属しているということではなく、どの要素を持っているかを把握するための取っ掛かりとするものです。

レゴ・シリアス・プレイに関して言えば、偶然と模倣の間を行き来しています。意図せずに使ったブロックの色や形に意味が見出されたり、作ったモデルのなかに自分の考えを発見したり、他の人が作ったモデルとの関連性を発見する過程には偶然の力が発揮されています。また、モデルを作った後で何を意味しているかを説明するとき、モデルを個人の喜びなどの説明している内容に模倣させています(その相手は自分だったり、隣の人だったりします)。

前回紹介したブリコラージュの実例には、流動化した状況(洪水)のなかで既存のものの新たな使い方を発見したものが幾つもあります。その発見の過程は遊びと呼べるものもあったことと思います。

絶対、何度も浮かべたでしょうね
子供は遊びの天才であるとよく言われます。これは自分の手にしたモノが何であるかという認識が、大人ほど堅固でないことによるのでしょう。そして、遊びを通してあれやこれやのモノが特定の目的、手段のために作られた道具であり、自分が身を置いている環境がそうした道具たちの関係性の総体であることを「発見」していきます。

ここで子供の遊びと大人の遊びの差が何なのかと言えば、ゼロから環境を発見していくのか、それとも一度出来上がった認識をリセットしながら次のステップへと進んでいくかの違いなのだと思います。そのために、大人はより多くのエネルギーを消費(ガソリンとかスポーツドリンクとか)するのかも知れません。ともかく、発見のプロセスであることには変わりはありません。

ただし、それには今の状態(自覚しているものも、まだ形になっていないものも)を把握する必要があり、とりわけ言語化されていないものに形を与える必要があります。レゴのブロックはそのための仕掛けの一つということですね。

2012年4月9日月曜日

LEGO Serious Play™ その2 ブリコラージュでやってみる

LEGO Serious Playをどういった場面で使うかという点について。わたしはLSPで食っていく立場ではないので(とりあえずは)、あえてビジネス的な場に限定はしません。

レゴのブロックを作り変えながら自らの思考を発見していくプロセスは、根本的にはブリコラージュ的な活動であると考えています。ブリコラージュは、理論と計画に基づいてものを作っていくエンジニアリングに対置される概念で、そこら辺にある有り合わせのもので試行錯誤しながらものを作っていくことを指します。

元はフランス語で、レヴィ・ストロースが『野生の思考』において・・・という話をする気はありません。『OL男子の4コマ書評』というブログに、異様に分かりやすい上に的確な記述があるのでそっちを読んていただけると、より理解が深まると思います。

また、ブリコラージュでGoogleイメージ検索をすると、こういう画像が出てきました。



やはりブリコラージュを扱った記事(リンク)に載っていた、洪水のときにタイの人々があり合わせのもので作ったもののひとつです。こういうものを見ると、わくわくしませんか?

海外サイトですがこちら(リンク)でも大量に見られます。街が水没しているのに、写真に出てくる人たちが妙に楽しそうに見えるのは、こういう創意工夫をやっているおかげなのではないかと思えたりします。

しかし、世間を見渡すとエンジニアリング的な方法や発想(無駄なく、効率的に、確実に)の方が一般的であるように思えます。確かに現代社会を維持しているインフラ(原発も含め)や、飛行機や自動車などはエンジニアリングの賜物ですし、身近にある大量生産品はエンジニアリング的な計画に基づいて生産されています。それでも、新しいものを作るときにはブリコラージュ的な試行錯誤(ラピッド・プロトタイピングなど)を経ているものだと思います。

何を売るかが明確な時代には、できたものをエンジニアリングによって再生産する能力が重視されていました。ただ、今はエンジニアリングが成り立つ条件そのものが流動的になっているため、解決されるべき課題を発見したり、解決策を発見することが重要になっています。そして、往々にして発見というものは、既にそこにあるもののなかにあったりします。

話をLSPに戻すと、LSPでは頭で考えるのではなく、モデル(手)で考えるという言い方をします。講習を受けたとき、本当にブロックを使って説明できるのか不安がありましたが、意外とスムーズにできて驚きました。そもそも、ブリコラージュというのは人間が本来的に持っている能力です。その能力を個人のなかに「発見」し、集団で発展させていく方法論が組み込まれている点がLSPの優れている点なのだと思います。

こうした利点がフルに発揮される場として、アジャイル開発を行いたいソフトウェア会社や、広告会社の企画部隊などが思い浮かびます。実際にロバート・ラスムセン・アンド・アソシエイツのウェブにある実績(リンク)を見ると、近い分野が挙がっています。

組織としてのクリエイティビティというのが、ひとつ鍵なのでしょう。一方で、ブリコラージュ的な知性や方法論を生徒に身に着けてもらいたいと考える教育機関があれば、そこでも実行できることはあると思います。

個人的には、こうした学習的側面や、LSPの持つまだ言語化されていないものに形を与えるという機能に注目しています。

※どうやら引用した画像はタイではなくベトナムのようなのですが、ブリコラージュであることには変わりないのでそのままにしています。
※蛇足ながら、わたしはエンジニアリングの人だと思われることが多いのですが、自分では完全にブリコラージュ型だと思っています。「何かを作るときにはあらかじめ人に説明して、有言実行しなさい」といったお説教を食らったことも何度かありますが、どう落着するか分からないことをやっているのに、そんなのは無理だなあと思ったことがあります。だいたいそういうお説教をかます人に限って、出来合いのものの消費者でしかなかったりするのですが。問題解決の方法も、システムやツールによるものだけとは限りません。まずは何が問題なのかを把握した上で、その思考の枠から外れることが肝心なのだと思います。

2012年4月8日日曜日

街の桜

自宅近辺の桜の様子をアップ。よく言われる通り、桜って撮るのが難しいんですよね。けっこう真剣にやってみましたが、自分の腕ではまだまだ。夜桜なんてほぼ全て失敗だったと思います。しかし、よくよく考えてみると、別に桜を撮りたいわけじゃないんですよね。というわけで地元の方々の日々の営みと桜との組み合わせにて。






2012年4月6日金曜日

LEGO Serious Play™ってなんだ?

3月末に、ボストンにてレゴ・シリアスプレイ(Lego Serious Play™。以下LSP)の研修を受け、公認ファシリテーターとしての認定を取得してきました。

LSPってどんなの?という疑問が湧くと思いますが、こんなものです。

どーん!

お分かりいただけましたでしょうか?いや、答えは聞くまでもないのですが、本当なら実際にやっていただくのが一番良いものです。というか、体験しないと分かりません。残念ながらそれはこの場ではできないので、説明していきます。

実は、R25で紹介されていたことがあります(こちら)。公式に近い情報としてロバート・ラスムセン・アンド・アソシエイツのページがあります(こちら)。だいたいのところは、このページを読めば把握できると思います。ただ、ここでは自分の考えの整理のため、という点もあって深掘りしていきます。ちなみに、研修は当のロバート・ラスムセン氏から受けました。そのまま引用します。
レゴ・ブロックを道具に使う、ユニークなアプローチで、 
・組織のビジョンや将来像創り 
・新たな戦略立案
・創造性の開発 
・個人のキャリア開発 
・チームビルディング 
といった、組織の抱える課題を可視化し、組織に内在する知恵を結集して、解決へと導きます。

というプログラムです。製品や何らかの分析手法ではなく、課題解決のためのプログラムです。また、コンサルティングではなくファシリテーションの手法です。引用された課題にLSPというプログラムが有効な理由は幾つか挙げられますが、ブロックを使って何らかのモデルを組み立て、それに対して自分なりの意味を与えること、やっていて楽しいことが核になっています。

 意味を与える

言語化とも言った方が良いかも知れません。人は自分の考えていることを完全に言語化できているわけではありません。意識下で渦巻いている、未整理の、意味付けられていない何かを、ブロックを組み替えながら探り当て、言語化することができます。また、上手く言語化できないものをモデルで表現することもできます。モデルを共有することによるコミュニケーションを通して、チームビルディング戦略構築状況把握に役立ちます。

 - チームビルディング

言うまでもなく、コミュニケーションはチーム作りの重要な要素です。しかし、いざ自分の周囲を見渡してみると、自分でやっているつもりのことと、実際にやっていることとは異なる場合が多いです。コミュニケーションについても同じことが日々起きています。言ったつもりのことと、伝わったこととは往々にして異なります。

LSPを使うと、自分の考えを言語とモデルの両面で表すことができ、また他人のモデルと組み合わせることでどのようなストーリーを描かれるかが見えるようになります。結果がどう出るか分からないこと(新事業など)に乗り出すときには、どこかへ向かうことを説得するよりも合意形成の方が重要になってきますが、目標とストーリーの共有によってそれを図ることができます。

 - 戦略の構築、動的な把握

戦略とは、「何をやるか」であり「どうやるか」ではない、というのはよく言われることですが、何をやるかが決まっても、具体的な方法論や必要なリソースが欠如しているために最初から成り立たないということもあります。

LSPの発展的な使い方として、ある目標に対する個々人の提供できる価値や、目標達成を促進したり阻害している要素もモデルで表し、それらの関連性と繋がりの強さを表すものがあります。企業戦略というと、BSCやSWOT分析などの手法が一般的であると思います(サンプル)。違いといえば、BSCが戦略要素を静的に記述しているのに対して、LSPでは動的に把握できるものになっています。

物事が計画した通りに進んでいれば良いのですが、なかなかそうはいきません。コントロール不能なものからすぐに潰せるものまで、色々なリスクや促進要因が潜んでおり、それらが絡み合って状況を作り上げているのが通常かと思います。その状況の変化に対して、何が起きるのか、何ができるのかを把握できるようになります。

 楽しい

ブロックをいじりながら何かを考えるのは楽しいです。シリアス「プレイ」という名前はこの点から来ていると思います。右脳の活用というのは、デザイン思考への関心が高まるにつれ、色々なところで取り上げられるテーマとなっていますが、手を遊ばせることで右脳から出てきた何かをキャッチして左脳の論理に乗せていくことで、右脳左脳の両方をフル活用することになります。これはとてもクリエイティブな活動です。チームで取り組むことで、多様な意見を取り入れられるようになる点、そして強制するのではなく自主的な参加を期待できます。

 - 全員参加

ダメな会議でよくあるパターンは、特定の人が大演説をぶちかまして残った人は黙って終わるのを待っているというものです。LSPに限らずファシリテーションにおいては避けるべき状況ですが、ブレインストーミングなどで出てきた意見もヒエラルキーによって排除されたりすることがあります。こうした場合、最終的には均一な意見しか出てこなくなります。

全員がモデルを作ってそれに意味づけを行う場合には、最初からバラバラです。上手くまとめられるかはファシリテーターの手腕によるところもありますが、基本的には全員が100%参加するということになります。ここでの基本的な発想は、多様性から利益を得るということです。

具体的には、前段の戦略構築などの場面においては、人によって見ているリスクやチャンスに対する評価が異なります。自分では思いもつかなかったようなことを見ている人もいるでしょう。こうした意見を集約することで組織としての目標に確度を高めることができるようになります。

 - 自主的な参加

やっていて楽しければ、強制されなくてもずっと続けるのが人間です。これは前述の戦略のところでもありましたが、ある目標に対して個々人が貢献できる価値を明確にすることも過程の一部にあります。

会社内での不満のなかで多いのは、給料や福利厚生のことよりも自分が何を求められているのかが分からないことだという調査結果を読んだことがあります(リチャード・ワーマン著「それは情報ではない」)。逆に求められていることが明確すぎても、決まりきった役割しか求められないのだという不満が出ることもあるでしょう。

上司は部下に何を期待すれば良いのかよく分からず、部下は何で貢献できる(したい)のかが明確でない。これはよく見られる状況だと思います。ここで、まず自分の提供できる価値(必ずしも具体的なスキルでなくて良い)という点を基点に考えられるようになります。

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ざっと、LSPを用いることによってもたらされる価値、利点を書いてみました。もちろん、万能的に使えるというものでもありません。どういった場面で、どういった人や組織に使うのが良いのかを次以降では考えていきます。