2012年8月2日木曜日

非言語的な思考

悩むことと考えることを並べて、悩むのには価値がないので考えるようにしなさい、といった主張に行き当たることがあります。

これはこれで妥当な指摘ですし、「思い悩む」ことには意味がないとは自分も思いますが、では「考える」とは実際にどのような行為なのか。

レゴ・シリアスプレイのワークショップをやっていると、ブロックの使い方のパターンが現れてくる場面に立ち会うことがあります。一度それを見出した人はくり返し使っていくことが多いです。

レゴの場合、作った人がブロックに与えられた意味が機能となりますが、ボルトやナットなどの具体的な物を相手にするときでも、その機能を発端にその使用方法のパターンを発見できます。この場合の思考とは、頭のなかで文章を作ることではなく、特定の機能と機能とを組み合わせていくことですが。

自分の場合でも、エンジニアリング的な仕事をしているときには、目の前にある問題を自分の得意な解決のパターンにいかにはめ込むか、全部が無理でも部分的に適用できないかと試行錯誤を繰り返していました。

これに似た事例として、『技術屋の心眼』という本にエジソンが回転シリンダーを様々な機械に応用しながら発明に使っていった事例が載っています。
「エジソンは、蓄音機、印字式電信機、電気ー機械式テルオートグラフ(文字や絵を電気信号に変えて、離れた場所で再生する装置)、キネトスコープ(映画の前進)などの様々な機械で採用した機械的な組合せを、くり返しくり返し使用した」
この『技術屋の心眼』という本は、技術者の持つ独特の思考法について詳察を重ねていて、とても面白く読めます。その思考についての記述を引用すると、
「技術に携わる人びとが構想している物体の特徴や特質の多くは、言葉では明確に表現することができない。それゆえ、心の中で、視覚的で非言語的なプロセスによって処理されることになる。」
本のタイトルに使われている心眼(Mind's Eye)とはこの「視覚的で非言語的な」プロセスを指します。著者のE.S.ファーガソンは、ここを出発点としてエンジニアが物を作り出していくのプロセスを分析することで、非言語的な思考の本質を探っていきます。

この、非言語的な思考は言語による伝達が困難であるために、それを身につけた人とそうでない人の間に大きな差が生まれます。差というのはアウトプットは当然として、そこから発する市場価値においても。

当たり前のことですが、知識を身につけただけではなく、実際にそれを作って運用させた経験とそこから得られる勘が必要であるということです。

このことは、ある種の技術の継承は実践のなかでのみ行えるものであることを言い表してもいます。医者による手術の技術の継承が、解剖ではなく実際の手術の現場において行われるように(わたしの盲腸切るのに苦労していたあの新米医者は元気かな?)。

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