2011年12月16日金曜日

2011/12/15

仕事を休んだので、ゆっくりと起きて、ゆっくりと料理し、ゆっくりと本を読み、ゆっくりと走り、友人とゆっくりとお茶を飲んで、最後にゆっくりと明日の食事を作って終わり。

2011年12月13日火曜日

2011/12/13

日差しが暖かくて気持ち良かったので、昼休みに代官山にできた蔦谷書店を覗いてきた。できたばかりでレストランなどは混んでいて入れず、一通り店舗内を散策して帰ってきた。

本屋に何を期待するか。自分の場合、鎌倉のたらば書房と何件かの古本屋に通いながら育ってきた。たらば書房という本屋は、外見はとても地味な、いわゆる街の小さな本屋だが、店に入ると小部数しか出ない雑誌や本が仕入れてあったり、文庫本は出版社別ではなく著者別に並べてあったりして、本の探しやすさと仕入れの妙を味わえるお店だった。

鎌倉という土地には、こうした店が成り立つぐらいには読書家がおり、古本屋も含めて地域内での本の循環はとても豊かだった。これらの書店たちでヴァレリーやブランショを追い掛け回していたのが自分の20代前半だった。ノスタルジーもありつつ、こうした街の温度のようなものを少しでも感じられる書店を応援したいという気持ちがある。

一方で代官山にできた蔦谷書店。巨大であり、物量に圧倒される。滅多に売れなさそうなマイナーな本も置いてあるし、本屋という空間をメディアとしてフル活用しようという強い意志を感じる。その一方、損耗率や不発弾の発生率まで計算に含んだシステマチックな爆撃を受けているような印象もある。

大抵の本屋には売れない本が揃った棚がある。むしろそうした本ばかり読んでいる自分にとっては、本屋の良し悪しは誰に必要とされているか分からない本がどれだけ置いてあるかで決まっている。代官山蔦谷では、「売れない棚」は、スペースは余っているにも関わらず手の届かない高さに設置されていたりして、商品というよりは天井まで本棚があることを示すためのオブジェとして置かれているように見えた。

アメリカのカジノでは、テーブル毎に負け率と負けられる金額が設定されており、それらが一定以上の数値になるとテーブルをクローズしてしまう。胴元が勝つように統計的に調整されているのだが、ツタヤでも同様の店舗オペレーションのノウハウがあるのだろうと思う。

東京で大規模店舗を回すにはこうした損切り的なシステムが必要だということは理解できるが、書店というよりはツタヤシステムそのものに見えてしまった。

2011年12月12日月曜日

2011/12/12 3

断章形式の作品というものを、最近はどうも読めないでいる。もちろん物理的には読める。ひとつひとつの断章を読み進めていくのは簡単だが、それらの組み合わせ、隙間から意味を捉まえて遊ばせることができなくなっている。頭が硬くなっているのか、疲れているのか。いずれにせよ、少し脳味噌を使ってあげないといけない。

2011/12/12 2

人生初のポルトガル料理を食べる前、本棚のフェルナンド・ペソアの本を何年かぶりで読み返していた。この作家について何か書けるほど読み込んだわけではないが、「私」の複数性に関する記述のなかに、自分の感覚のある一部分にとても近いものを見つけたことを思い出した。

2011/12/12

日曜日は近所で人気のポルトガル料理を食べに行ってきた。
同じイベリア半島ということでスペイン料理に近いのかと思っていたものの、もう一段素朴な味わい。お店独自のアレンジなのか、パクチーが料理に使われていたのが面白かった。ソーセージなどは荒々しい味だったので、それを打ち消すために使っているのかも知れない。家庭料理風で味が一本調子になりかねない料理が多かったので、味に深みと彩りが出ていた。
ポルトガルの海洋国家としての歴史を考えれば、香草が手に入る地域に辿り着かなかったわけはないと思う。ただ、実際ハーブ以外の香草を料理に使うことがあるのかは、店員さんが忙しそうで聞けず仕舞いだった。

2011年12月11日日曜日

2011/12/10

とある社会人大学院のオープンコースに参加してきた。大学院の説明に加えて、マーケティングをテーマにした講義とちょっとしたワークショップ。
ワークショップは軽いジャブ程度のものだったが、面白かったのは、自社でも経営層らしき人がその場のリーダーをメンバーの一人にお願いしたことから、各人の振る舞いまで含めてほぼ自動的に役割が決まってしまったこと。誰しもそれぞれ与えられた役割を演じていることは言うまでもないが、会社員は特にそれを敏感に察知するものだし、そうでなくてはやっていけない部分もある。刑務官と囚人で別れる実験のように、役割が人間心理に及ぼす影響だろうと思う。
そのうえで、号令をかける人、役割を発生させる人の存在が重要なのだろうと思う。「あの人、人にやれやれって言うばっかりで自分では何もしないよね」という陰口はよく聞くのけれど、船頭多くして船山に登ってしまうか、烏合の衆になるか、単なる丸投げ野郎ではなく本当の意味で号令をかける人がいるかどうかで変わってくるのだろうと思う。