2012年8月30日木曜日

【読書】スティーブ・ジョブス(2/3) チャンス・オペレーションとセンサー

カウンターカルチャーのというOSの上に乗った、ジョブスの才能とはいかなるものか。

極端なまでの審美基準の厳しさはそのひとつで、そのせいで家具が揃えられないなどの事例が伝記ではくり返し紹介されていますが、とりわけ印象深いのは闘病中の下記のくだり。
最高の医療と看護とで大事にされていたにもかかわらず、ジョブスは爆発しそうになることがあった。(中略)ほとんど意識がない状態でも、強烈な性格は必ずしもおさまらなかった。たとえば呼吸器科の医師がマスクをつけようとしたときには、大量の鎮静剤が投与されていたのにジョブスはマスクをはずし、こんな変なデザインのものは身につけないとつぶやいた。 
まともに口がきけない状態なのに、「デザインの違うマスクを5種類持ってこい、そうしたら気に入ったデザインのものを選ぶから」と言うのだ。(中略)指につえる酸素モニターも不恰好で複雑すぎるといらい、もっとシンプルにデザインする方法をいろいろと提案した。
ここまで来ると、悲劇を通り越してスラップスティック・コメディとも言っていいレベルに達しているのですが、自らの生死がかかっているような場面ですらまともなデザインのマスクを選ばなければ気が済まない業の深さは恐ろしいものがあります。むしろ医者が馬用の鎮静剤でも打つべきだったのかも知れませんが。

著者のアイザックソンはジョブスの性格の激しさと表現していますが、鎮静剤すら効かないというのは果たして性格なんでしょうか。

一般的には、何らかの嗜好であるとか、選択の結果をもってある人の人格を表せるように考えられていますが、個人的には同意しません。むしろ、あくびをするときの手の動かし方や、眩しい時の目の細め方などの、無意識的な行動にこそ個人の存在が表れてくるように思っています。この意味で、ジョブスのこの行動は、彼自身がひとつのセンサーと化していることの表れではないかと思います。これと絡んで重要な点がひとつ。
ジョブスは時折、会社自体をサイコロにかけてみることが重要だと考えていた
この記述で思い浮かぶのは、チャンス・オペレーションという手法。具体的には、「偶然性の音楽」のジョン・ケージや、『高い城の男』の執筆時に易を使って物語の方向性を決めていたフィリップ・K・ディックなど、個人の感性を排除して、偶然を導入することで創作の可能性を広げるための手法です。

ここでのサイコロは例えですが、振付家のマース・カニンガムはダンスの振り付けのためにサイコロを用いて、この数字が出れば左に動くとか、どの数字が出れば2回ジャンプするといった実験を行なっていました。

現実には、企業経営においてサイコロを振るというのは、ライバル社の動きや技術、法制度、政治まで含めた様々な変数で成り立っているので、高度に複雑な作業です。イノベーションそのものが、そうした行為であるとも言えるでしょうが。ある意味ではしかし、これは「経営者」にしかできない仕事とも思えます。

わたしの携わっているLSPなどは、偶然の力を利用するための方法論の一部と言い換えることもできます。偶然を活かすためには環境作りも必要で、制限時間を設けて頭の回転を早くしたり迷う暇すら与えないことなどはその代表的な事例と言えます。この点は現実歪曲空間で無理難題を部下にいつの間にか納得させているジョブスと似たものがあります。

偶然性に身を任せるためにもう一つ重要な点は、その変化をどう捉えるかというセンサーを磨くこと。

ジョブス本人のセンサーとしての精度という点では、Macの開発時に大学で学んでいたカリグラフィが蘇ってきた、ということはフォントに関する本を齧ったレベルでは起きないことだと思います。起きたとしても、せいぜい思い出すという程度でその精度は低い。ジョブスには実装に至るまでのカリグラフィに対する深い理解があったし、それを突き詰めるこだわりもあった。

自分の周辺の感性鋭い人を見ていると、やはりこのセンサー的なものが発達していて、それと同時にセンサーを維持するために努力を惜しまないところがあります。同時にその限界も皮膚感覚で理解しているところがあり、恐らくそれはジョブスにもあったのではないかと思います。