2012年3月3日土曜日

機械の目

かなり格好いい映像に行き当たった。機械がどのように世界を認識しているかを可視化した映像のコンピレーション。1分過ぎからの、??? → carが連続で現れる箇所が少し不器用な感じがして好きだ。


固定した視点でのカメラが多いため、動くものを捉えてパターン認識をさせているのだと思う。車が進む方向などを(恐らく車体の角度から)指し示しているものや、車内に設置したカメラで進行方向にあるカーブや障害物を認識しているものがあり、様々な用途があるものだと感心する。

Googleが自動走行車の実験を行った際は、Street Viewの撮影データを使って道路のシミュレーションを行い、それと現実の道路との差を認識させる手法を取ったらしい。これ自体、ウェブの膨大なインデックスを作成して検索システムを築き上げた手法と同一線上にあり、Googleの取る手法が一貫していることが伺えて興味深い。確かに合理的だが、こんなことはGoogleにしかできない。

人間の習慣とはパターン認識である。イーフー・トゥアンの本に、夢遊病者が記憶のないままにいつもの習慣で走っている道で車を走らせて無事に帰ってきていたというエピソードが引用されていた。ここまで極端な事例でなくとも、車の運転手は、熟練するに従って目に映るもの全てを運転へフィードバックさせずに、道に飛び出すものや信号、重要なサインに注意を向けるようになる。

自分が目にしている風景を、機械に読み込ませるならどういう方法があるだろうかと考えていたところ、目に飛び込んできたのがこれ。


視覚障害者誘導用ブロックである。線が動ける方向を、点が注意や警告を意味している。存在していることは認識していたが、それぞれの意味までは考えずにいた。道路や駅のホームにおいて、目立つ色で認知しやすいこと、可能な動きをアフォード(逆に言えば制約をかける)してくれるなど、考えてみればよく出来ている。

ポロックの隣で

ポロック展のついでに、所蔵作品展の『近代日本の美術』と『原弘と東京国立近代美術館』も見に行ってきた。

所蔵作品には松本竣介の作品が含まれていて、ここに行くときにはだいたい観るようにしている。それで2年ぶりぐらいに『Y市の橋』を観たが、以前とは受ける印象がだいぶ異なっていた。

ポロックの後だからというわけではなく、こうした繊細な作風の作品よりも、作品全体から溢れ出る何かを感じられる作品が好きになってきている。例えば岡本太郎や河井寛次郎など。比較するのも間違っているかも知れないが、同じ印象はパウル・クレー展を観に行った時にも受けたので、自分のなかで変化しているものがあるのだろうと思う。


原弘の展示は様々なポスターが見られてとても面白かった。特にタイポグラフィとダダのポスターが好きだ。ポロック展の影に隠れているが、こちらもとても面白い。

ジャクソン・ポロック展

東京国立近代美術館で開催されているジャクソン・ポロック展に行ってきた。

ジャクソン・ポロックを知ったのはストーン・ローゼズのアルバムジャケットがきっかけで、音に夢中になっていたので絵に関してはあまり深く追いかけなかった。せいぜい、ジャクソン・ポロックという名前の「ああいう感じ」の画風の画家がいるという程度。そういうわけで、ポロックの作品を年代に従って見ていくのはこれが初めてだったが、これが相当に楽しかった。

正直なところ、キュビズムの影響が出ている頃の作品はあまり好きではない。その後の、ネイティヴ・アメリカンのトーテムポールをモチーフに据えたときから、具象でありつつ具体から離れた領域を見据えていたのではないか、技法としてのポーリングやオールオーヴァーな構成がどこから生まれてきたのかといえば、モザイクによる作品で具象として残っていたイメージを解体したのが契機になったのではないかと思う。もちろん伝記や評伝の類は読んでいないので観た限りでの解釈だが。

個人的に好きなのは、『白と黒の連続(Black and White Polyptych)』。どこまでが枠で、どこまでが作品か。行き着いた先が作品となったようで、どこか井上有一に似たところがあるように思えた。ただ、ポロックの方がもう少しお行儀がいい。

白と黒の連続
井上有一の花
『白と黒の連続』に関してはポストカードも買ってしまったが、実物のサイズで観るのと、ポストカードやPCの画像で観るのとでは存在感が圧倒的に異なる。本来であれば当たり前の話だが、別の「作品」と言っていいだろう。今回の展示の目玉とされていた『インディアンレッドの地の壁画』が象徴的で、大部屋一つを丸々使って展示されており、寸法を越えた存在感を放っていた。