2012年3月9日金曜日

キャラ作りとセルフブランディング

結論から言ってしまえば、キャラ作りは他者から求められる役割に自分を合わせることで関係を固定する試みであるのに対して、セルフブランディングは他者に対して発揮できる役割をアフォードすることで関係を持続する試みである。

せっかく舞台に上がるのなら、端役だったとしても、他人が自分に求める役割を演じるより自分自身を演じた方が良い。そうすれば大根役者でも多少は許されるだろう。

転職するしないは別として、習慣として半年に一度はCV(履歴書)を整理するようにしている。色々、見直すには良い機会だが、書類上の人物と自分が同じ人物とは思えないところがある。もちろんCVなどに、自分らしさと思っている妙な癖や(酔って片付けるとか)つまらないこだわりなどは書くこともないのだが。

仕事をしている自分と個人としてのそれの区分けという点で面白かったのが、HBR IdeaCastでのアンソニー・ボーディンのインタビュー。アンソニー・ボーディンはTVドラマにもなった『キッチン・コンフィデンシャル』の作者で、本もドラマもクレイジーな人間ばかり出てきてめちゃくちゃ面白い。ディスカバリーチャンネルでも『アンソニー世界を喰らう』という番組を持っている。HBRのインタビューの書き下しはここにある。特に面白かったのは終わり間際の、下記のくだり。拙訳にて失礼。
スージー・ジャクソン: 個人としての人格と一緒に、それと緊密な繋がりを持ったビジネス人格があるのはどういう感覚なんでしょうか?有名人であるアンソニー・ボーディンと、個人であるトニー・ボーディンとの間でバランスを取ることに難しさはありますか?
アンソニー・ボーディン:自分自身でいることでそのまま評価されたという点で、自分は本当に恵まれた立場にある。2000年に『キッチン・コンフィデンシャル』がブレイクしたとき、これが自分が一生抱えて生きていくべきアイデンティティだと間違って思い込むこともしなかった。ハンター・トンプソンのように終わる気は毛頭なかった。生活の質こそが自分の関心の中心にあって、そこで興味を持続する方法も自分にはある。自分自身のパロディにならないように気をつけているし、そうなったときに真っ先に指さして笑うのは自分だね。革のジャケットを着たり、いつも煙草を持って画面に登場したりといった、特定のキャラや他人から期待される振る舞いを背負っていくべきだと考えたこともない。
青字部分は、原文ではPersonaだったが今の日本語ではキャラが最も近いのでそう訳した。キャラが濃いとかかぶるとか、キャラ疲れなどという場合のそれである。

大した才能があるわけでもない凡人としてはどこかで社会との折り合いをつける必要があるわけで、キャラ作りを全否定するわけにもいかないが、実質を欠いたままキャラを作っても、所詮は空っぽの入れ物に過ぎない。

セルフ・ブランディングやパーソナル・ブランディングという言葉が注目される背景には、曖昧なjob descriptionとfirm-specific skillをベースとした運営では日本企業がやっていけなくなって、組織も人的資源もモジュール化が進んだり、変化が激しいなかで個人のスキルの陳腐化、断片化が進みやすいという側面があるのだろうと思う。

一方で、就活をパッケージ化して売ったリクルートのように、断片をかき集めて形を作る作法を売ろうという商売もあるのだろう。いっそ断片を愛するなら、朝鮮の茶碗の欠片を愛した桃山の文人のように行ってみたほうがいい。

2012年3月4日日曜日

2012/3/4

原作のある映画を観るときには、原作が持っているメッセージと、映画監督のメッセージとは別のものとして観るようにしていて、どちらを取るかはどちらに接したかによる。原作のメッセージを理解することは、それを解釈して映画にする人間にとっては義務だろうと思う。ただし、理解した上で逸脱する分にはその限りではないとも思う。

ドラゴン・タトゥーの女

『ドラゴン・タトゥーの女』を観た。デヴィッド・フィンチャーの新作。

色々なレビューで指摘されている通り、今回の作品のカット割はとても変わっている。始まってしばらくは見辛いなあと思っていて、映画館の前の方の席に座ったせいかと思っていたが、そうではなくて、通常の映画とはカット数とその変わり目が他の映画とは少し様子が違う。
例として、主人公の一人であるリスベットが調査対象の回線に何かを仕込んでいるシーンなどは、普通の映画ならば 1. 配電盤の蓋を開く → 2. 回線を見つける → 3. 回線を引っ張りだす → 4. 細工をする → 5. 細工を終える → 6. 配電盤の蓋を閉じる というぐらいのカット割になるだろうが、この映画では 1. 配電盤の前に立つ → 2. 細工をする で終わりである。おまけに、それぞれの切れ目もやや不十分なところで来てしまう。 

どんどん切り替わるので、カット数が多いように見えるが実は少ない。しかしギリギリで何をやっているかは分かるようになっている。鑑賞者の認知の限界に挑戦しているようですらある。このカット割はリスベットの行動シーンで顕著に見られるもので、彼女の行動の迷いのなさと正確さを演出する上で最適の手法だと思う。
もう一人の主人公であるミカエルの登場シーンでは、追い詰められるに従ってカットが長くなる。こちらでは爽快感とは正反対のにじり寄るような緊張感が出る。カット割に象徴されていryが、人物造形の上でもミカエルが情緒の人でリスベットが情報の人として鮮明に対比される。

リスベットの行動は目的に向かって最適化されており、見たまま洗練されたプログラムそのものである。わたしも単純作業を行う際には自分で自分に対してプログラムを書いて実行するような意識でいるが、これは恐らく多くの人がやっていることだろう。

この2人は同じ真実に到達するのだが、そのプロセスはどちらも地道な調査のようでいて、ミカエルがある共通点に気付くところから、リスベットが大量の情報の蓄積と整理と、やはり行動上の相違が表れている。

この2人は、目標のために行動を共にするものの、それが達成された後ではすれ違ってしまう。この点では前作の『ソーシャルネットワーク』の延長線上にあるもので、モチーフの上では特に飛躍しているわけではないが、手法と表現の深化という点では何歩も進んでいると思う。

あれこれややこしいことばかり書いてしまったが、内容的にもスリリングで面白いものの、割と過激なシーンが多いのでその点にはご注意を。なお、トレント・レズナーによるサウンドトラックは相変わらず素晴らしい。登場人物がNINのTシャツを着ていて、またそれがいかにもな人物であるところなどは笑える。


移民の歌


※リスベットと男性性との対決というのは重要な要素だとは思うものの、これが原作から引き継がれているものなのかは、原作を読んでいないので分からない。