2013年9月9日月曜日

アメリカ映画としての『パシフィック・リム』

『パシフィック・リム』の興行成績は、中国での売上がアメリカでのそれを抜いた。巨大ロボと怪獣がステゴロ勝負する映画がこんなに受けるなんて、何が売れるかよく分からないものだと思う。私は存分に楽しんだが。

本作は米国外での収入が75%を占めている。この結果から逆算するのはフェアではないし、そもそも正しくもないのだが、いわゆる強いアメリカの凋落ということが近年のハリウッド映画に様々な形で影響を与えているのは間違いないことで、これは本作においてもジプシー・デンジャーの造形のなかで十分に確認できる。

ジプシー・デンジャーの地味な色は、「マン・オブ・スティール(筆者は未見)」でスーパーマンのコスチュームの色が、かつて露骨に星条旗を想起させる派手な赤と青であったのがくすんだ色となっているのと相似形を描いている。それだけではなく、原子力を動力にしている旧式という設定、一度カイジュウに破れているという物語にしても、現在のアメリカの姿を強調していると考えて良いだろう。


『パシフィック・リム』におけるイェーガーの大きさはこの色彩を補う効果もあって、圧倒的なサイズ感によって地味な色彩を克服する表現は相当に成功している。また、重い質感も非常によくマッチしていたと思う。たまに何が起きているのか分からない瞬間もあったが、地味な色彩のものが暗い画面のなかで早く動きすぎると、画面のなかに沈んでしまう。このため、舞台となった香港の街も華やかで良かった。今の東京は少し色が少ないし、過去の色々な作品で壊されすぎている。

双子の兄弟がパイロットであった点については、設定から導き出された部分もあるだろうが、単独で強さを発揮していたかつてのアメリカを思えば双子以外の設定はありえない。割とやんちゃなところのあった弟に対して、落ち着いていた兄の存在は、アメリカにとっては「自信」だったのだろう。引きこもって壁の建設に従事する辺りによく表れている。

こうした見立てでいくと、最終的に同乗者が日本人になってしまう辺りはベニチオ・デル・トロからの愛の表明に限定されるものでもないし、オーストラリア機で父親が離脱して黒人のリーダーが跳ねっ返りの若手と組むというところも、結局のところどいつもこいつも余裕のない米国が補佐しなきゃいけない矛盾がよく表れている。これは確かにアメリカ人にとっては楽しくなさそうだ。

他国はそうして苦しんでいるアメリカを見て、ややこしい問題については頑張ってくれたまえ、でもこちらにも予算はないけど美味しいところは残しておいてくれという調子でいる。中国のギミック溢れるイェーガーがあっさり敗退しつつ、きちんと売れているのは、大国が暴れている足元でしっかり稼いでいる商人たちを描いているからではないか。また、アメリカ的なものを脱色しつつ、環太平洋的な場に置くことのできる、ベニチオ・デル・トロの立ち位置に絶妙なものがあったのではないかと思う。だいたいこのバランスを取ったところで成功したと言える。

ロボットアニメや怪獣映画に関するあれこれも、書きたい気持ちはあるがそういう論評はいくらでもネットにあるのでそちらを読んでいただいた方が良いと思う。例えばこちらなど。

そういえば、英国はまったく存在していないようだった。アトランティック・リムではないのだから仕方が無いが、もはやあの国には便利屋(グローバル人材)の007しか居ないのだろうか。

2013年8月29日木曜日

風立ちぬ(雑感)

というわけで、『風立ちぬ』である。

感動したのかと言われれば、まあ何度か泣きそうになったので感動したんじゃないかとは思う。それよりも、こんなとんでもない映画を作ってしまう宮崎駿に畏れ入ったという思いの方が強い。

今年は、『コズモポリス』とか『ホーリーモーターズ』とか『パシフィック・リム』とか豊作だなと思っていたが、全部吹っ飛んでしまった。

これは○○の映画であると言い切ってしまえる内容でもない。まとまった文章にすると長くなりそうなので、思ったことを書いてみる。

・メフィストフェレス=カプローニ
映画の前半は、完全にメフィストフェレスに魅入られてしまったファウスト博士の話である。カプローニはあくまでも二郎の心のなかにだけ登場する。カプローニの表情や瞳孔が開いている様子からも、二郎のなかの狂気(願望)を代弁しているキャラクターだ。

彼は軍用機として開発した機体を輸送用のものとして私的に使っているシーンがある。これはクライアントに面従腹背して自分の目指すものを作る心性の現れだろう。他にも、失敗の記録を破棄したりするところも描いている。こうした準備段階を経て、物語が展開するのが軽井沢である。

・メフィストフェレス=カストルプ
二郎は軽井沢でゾルゲをモデルにしたであろうカストルプと接触したことで特高に睨まれることになる。そのため二郎は会社によって保護され、戦闘機の開発を継続することになる。

飛行機の開発そのものは二郎の意志に発するが、それが戦闘機となることはこの時点で決まっていたし、開発を断るという選択は二郎には与えられていない。そして、会社からの庇護も二郎が有用である限りの話であるため、失敗も許されない。

カストルプはドイツや日本の戦争の結末に対して破滅(破裂?)が待ち受けていると予言しており、このときの表情はカプローニそっくりである。ここで、二郎の運命と飛行機開発の結末は提出されている。

そのことは、二郎や同僚たちも薄々気づいていたことだろう。そうしたなかで、「機関銃を積まなければ早く飛べる」などというセリフを吐ける二郎は大したもので、そこに感心している服部もまた、恐らくは元開発者として二郎の心性を分かった上で、開発を任せるための闘いが組織の内外であったのだろうと思う。

二郎の佇まいを見ていると、こうした外的条件について二郎があまり気にしない人として描かれているが、そうした「現実」に対応するキャラクターは、服部や黒川、本庄などの職場のメンバーに託されている。

ところで、カストルプという名もあくまで二郎が手紙のなかで書いているもので、本人がやたらと引用していたトーマス・マンの『魔の山』から取ったものだ。当時のインテリがそうした引用からあだ名をつけることは、何となくやりそうなことではある。なお、ゾルゲ(Sorge)という名は、ドイツ語で不安や憂慮を意味する。そういうこともあって、個人的にはゾルゲであるというのが収まりが良い。

・菜穂子とお絹
菜穂子が二郎にとって都合の良い女性であった、という批判的な観方があるようだが、当時の超エリートの二郎にとっては自分にとって都合の良い女性と結婚するなんてのは簡単な話のはずである。わざわざ結核を患っている女性と結婚するのは、やはり互いが互いを必要としていたからだ。その点では宮崎駿は、きちんと自分の流儀を貫いていると思う。

お絹が結婚して子供を産んで幸せになっているというのは、二郎にもあったかも知れない可能性が彼女に託されている。どちらかといえば、彼女の方が二郎の初恋の人なのではないかと思うのだが。

・彼我の差
二郎にとって仲間とそうでない人間の差はなにか。設計図を見てそこに描かれた飛行機が飛んでいる様子を想像できるかできないか、そこが分かれ目だろう。ドイツ人の警備員や技師は、例え飛行機に関わっていても、交流ができる相手としては描かれていない。

警備員が「日本人は我々ドイツの技術を盗む」といかにもなセリフを吐くが、ユンカース博士は二郎達の見学を許可する。技術を持ち合わせない人間に、その技術について「我々の」と言わせている辺りにはアイロニカルな批判があるだろう。

菜穂子は何なのかと言えば、仲間ではなく自分の半身である。

・創造的人生は10年
くり返し強調されるが、外部条件、本人の才能、その成熟度、サポートする人の存在など様々な条件が重なっているのが10年という意味なのだろうと思う。宮崎駿にとっての10年というのは、もしかすると好き放題やっているように見える、『千と千尋~』から『風立ちぬ』の期間に託されているのだろうか。あるいはそうではないのか。

・終わり
すでにカストルプが予言している通り、二郎の夢が実現した先には滅びた国がある。そして、そこで出来たものが何であっても、理想というのは諸々の条件に対して妥協した形でしか実現しない。それを美しいものと言って良いのか、という点については私は答えは持っていない。

2013年4月14日日曜日

TAUS Executive Forum 2013

日本では3回めのTAUS、ともかく皆勤しておりまして、今年も参加してきました。

残念ながら前回ほど参加者も多くなかったのですが、これまで機械翻訳やポストエディットに関わる大げさな言説も鳴りを潜めて、現実的な話を落ち着いてできる良いカンファレンスであったと思います。派手さは確かにありませんでしたが。 

自分がTAUSを好きなのは、既存の翻訳やL10Nという枠組みよりも大きな技術的、歴史的視点から自分の取り組んでいる課題について見直す機会になるからで、その他の団体によるイベントよりも良い刺激を受けられるからということがあります。

反面、打ち出すコンセプトがEUの理念(リスボン条約)の影響をかなり受けていて、あまり日本の状況に当てはまるものではない点が前回で明確になっていたのも確かで、その点でもう少し具体的な話に引き寄せたり、ローカリゼーションが必要な部分もあるのだろうとも思います。

ただ、アカデミックとビジネスとの橋渡しのできる団体というのは、今のところTAUSぐらいで、本来であればこの両者はもう少し近くあるべきだと考えています。自分の業務のなかでも試したことではありますが、アカデミックの持つ客観性や、ある技術に対する等身大の評価というのはビジネス側にとっても意思決定を行う上で重要なことでもあります。特にMTやポストエディットは、この数年はあまりにもマーケティング主導というか、利点ばかりがアピールされてきた面が強いことは否めません(一部にあるMTPEに対するアレルギーもこれが大きいのだと思います)。

わたし自身は、L10N的な意味でのローカリゼーションのど真ん中にいるのですが、そろそろ次の動きというのが見えてくる頃合いなのだろうなと思います。それが何か、というのはいずれまた。

2013年4月9日火曜日

Sonar Sound Tokyo 2013

Nicolas Jaar目当てに参加してきました。

勢いでチケット買ってしまったので、NJ以外に誰がいるのかまったく知らずに参加したのだけれど、カール・ハイドが出てたんですね。へえ、アンダーワールド解散してからソロでやってたんだ、ボーン・スリッピーとかやるのかなあと思いながらのんべんだらりと過ごしてまいりました。

Red Bull Music Academyのテントにいる時間が一番長かったような気がします。知らないアーティストばかりだったけど、みんないい音出してました。

しかしNicolar Jaarはライブであんなに凄まじい音を出してくるとは想像だにせず、凄すぎてカール・ハイド観ずにそのまま放心状態のようにフラフラと家路に。

音が急に遠ざかったり近づいたり、途切れたり復活したり、色々な揺さぶりをかけてくるのですが、その様子は下記のブダペストでのライブでも確認できます。



彼のCDやミックスを聴いているとルーツが判然としないのだけれど、恐らく膨大な基礎教養があって今の地平に立っているんだろうなあということは簡単に想像できる。

一番好きなのはこちら、Mi Mujer

2013年4月1日月曜日

解像度

デジタル一眼レフを弄ったとき、人間の目ってのはなんて粗くものを捉えているのだろうと思った。一方で、恐ろしく解像度の高いサンプル写真を見て、いったいこれで何を撮れば良いのかさっぱり分からなくもなった。

ああ、それで、なんだっけ。このサイトが話題になっていて、解像度って奴の使い方が何となく分かったというか、隅から隅まで見えないように見せること、あるいはその先に飛び込ませるのが一つの使い方なのだろうということを思った。これ自体は写真というメディアが元々持っている、撮影者の意図しない何かが映り込む効果の延長線上にあってとくに目新しいものでもないのだけれど。

やたらと解像度の高いカメラを持ってしまうと、自分のような凡人は自分の脳で処理できる以上の情報を眼から受け取っているイカのような存在になってしまいそうだなと思う。

2013年3月28日木曜日

Bonobo / The North Borders


Bonoboの新譜が発売された。これはいいアルバム。今年のベスト候補じゃないだろうか。

2013年3月16日土曜日

企業が「帝国化」する

『企業が「帝国化」する』を読了。

かったるい読書。本がかったるいわけではないが。

乱雑にまとめると、筆者が属していたアップルや、あるいはグーグルのような企業が私設帝国と化していき、仕組みを作る側とそれを回す側との格差が開くことや、その構造がどのように作られているのかを述べている本である。

仕組みを作る側と回す側に分割されて云々というのは、元々企業というものはそうした仕組みで動いているもので、成長した企業が帝国化してサプライチェーンに入るかどうかが特定の企業の分かれ道になるという話も、日本各地にある企業城下町を見てみれば馴染みのあるものだ。鎌田慧の『自動車絶望工場』などはトヨタのそうした一面を表している。

むき出しの資本の論理に個人が絡め取られていくという話は今にはじまったものでもない。結局のところ、根底にあるのはグローバリズムによって先進国の中産階級の食い扶持が減っているということで、これもまた大昔からよく言われていることだ。確かに登場してくる情報はアップデートされたものだし、興味深いのだけれど、どこかクーリエ・ジャポン的な印象がある。

2013年2月28日木曜日

2013年 初日記

気付いたら2013年も2ヶ月が過ぎてしまおうとしている。

転職して2ヶ月経過、というところである。わたしの役割はといえば、まあよくあるカオスから秩序を作っていくものというか、切り込み隊長というか、そんなものである。

この手の仕事は、歯磨き粉のチューブから残った中身を絞り出すように、はじめのうちはけっこう調子が良いのだけれど、だんだんとしんどさが増してくる。歯磨き粉の味見やどう使っていくかを考えるのが楽しい人や、地道に絞り出すのが好きな人など、色々なタイプの人間がいるが、自分は絞りだす人としては凡庸極まりないというか、その点では自分よりももっと優れた人間がいることは素直に認めている。

しかし、たまには苦手なこともやらなければいけないものだし、やっている間に対処している問題に対する認識というものも変わってくる。

個々のお金になる作業というものは、本質的には会社にとっても、個人にとってもその先の行方を決定付けてしまうような本質的な問題ではなく(もちろんそれがあって事業や生活がある点で重要ではあるが)、その先にある目標と課題設定が何であるかが問題なのだろうと思う。というか、そこを見失うと長期的には袂を分かつようになるのではないかと思う。

そういう点では、いささか牽強付会であるにせよ、自分の生存戦略とはそう遠くないところにいるという点でなかなか面白い環境にいるものだとは思っている。