2013年8月29日木曜日

風立ちぬ(雑感)

というわけで、『風立ちぬ』である。

感動したのかと言われれば、まあ何度か泣きそうになったので感動したんじゃないかとは思う。それよりも、こんなとんでもない映画を作ってしまう宮崎駿に畏れ入ったという思いの方が強い。

今年は、『コズモポリス』とか『ホーリーモーターズ』とか『パシフィック・リム』とか豊作だなと思っていたが、全部吹っ飛んでしまった。

これは○○の映画であると言い切ってしまえる内容でもない。まとまった文章にすると長くなりそうなので、思ったことを書いてみる。

・メフィストフェレス=カプローニ
映画の前半は、完全にメフィストフェレスに魅入られてしまったファウスト博士の話である。カプローニはあくまでも二郎の心のなかにだけ登場する。カプローニの表情や瞳孔が開いている様子からも、二郎のなかの狂気(願望)を代弁しているキャラクターだ。

彼は軍用機として開発した機体を輸送用のものとして私的に使っているシーンがある。これはクライアントに面従腹背して自分の目指すものを作る心性の現れだろう。他にも、失敗の記録を破棄したりするところも描いている。こうした準備段階を経て、物語が展開するのが軽井沢である。

・メフィストフェレス=カストルプ
二郎は軽井沢でゾルゲをモデルにしたであろうカストルプと接触したことで特高に睨まれることになる。そのため二郎は会社によって保護され、戦闘機の開発を継続することになる。

飛行機の開発そのものは二郎の意志に発するが、それが戦闘機となることはこの時点で決まっていたし、開発を断るという選択は二郎には与えられていない。そして、会社からの庇護も二郎が有用である限りの話であるため、失敗も許されない。

カストルプはドイツや日本の戦争の結末に対して破滅(破裂?)が待ち受けていると予言しており、このときの表情はカプローニそっくりである。ここで、二郎の運命と飛行機開発の結末は提出されている。

そのことは、二郎や同僚たちも薄々気づいていたことだろう。そうしたなかで、「機関銃を積まなければ早く飛べる」などというセリフを吐ける二郎は大したもので、そこに感心している服部もまた、恐らくは元開発者として二郎の心性を分かった上で、開発を任せるための闘いが組織の内外であったのだろうと思う。

二郎の佇まいを見ていると、こうした外的条件について二郎があまり気にしない人として描かれているが、そうした「現実」に対応するキャラクターは、服部や黒川、本庄などの職場のメンバーに託されている。

ところで、カストルプという名もあくまで二郎が手紙のなかで書いているもので、本人がやたらと引用していたトーマス・マンの『魔の山』から取ったものだ。当時のインテリがそうした引用からあだ名をつけることは、何となくやりそうなことではある。なお、ゾルゲ(Sorge)という名は、ドイツ語で不安や憂慮を意味する。そういうこともあって、個人的にはゾルゲであるというのが収まりが良い。

・菜穂子とお絹
菜穂子が二郎にとって都合の良い女性であった、という批判的な観方があるようだが、当時の超エリートの二郎にとっては自分にとって都合の良い女性と結婚するなんてのは簡単な話のはずである。わざわざ結核を患っている女性と結婚するのは、やはり互いが互いを必要としていたからだ。その点では宮崎駿は、きちんと自分の流儀を貫いていると思う。

お絹が結婚して子供を産んで幸せになっているというのは、二郎にもあったかも知れない可能性が彼女に託されている。どちらかといえば、彼女の方が二郎の初恋の人なのではないかと思うのだが。

・彼我の差
二郎にとって仲間とそうでない人間の差はなにか。設計図を見てそこに描かれた飛行機が飛んでいる様子を想像できるかできないか、そこが分かれ目だろう。ドイツ人の警備員や技師は、例え飛行機に関わっていても、交流ができる相手としては描かれていない。

警備員が「日本人は我々ドイツの技術を盗む」といかにもなセリフを吐くが、ユンカース博士は二郎達の見学を許可する。技術を持ち合わせない人間に、その技術について「我々の」と言わせている辺りにはアイロニカルな批判があるだろう。

菜穂子は何なのかと言えば、仲間ではなく自分の半身である。

・創造的人生は10年
くり返し強調されるが、外部条件、本人の才能、その成熟度、サポートする人の存在など様々な条件が重なっているのが10年という意味なのだろうと思う。宮崎駿にとっての10年というのは、もしかすると好き放題やっているように見える、『千と千尋~』から『風立ちぬ』の期間に託されているのだろうか。あるいはそうではないのか。

・終わり
すでにカストルプが予言している通り、二郎の夢が実現した先には滅びた国がある。そして、そこで出来たものが何であっても、理想というのは諸々の条件に対して妥協した形でしか実現しない。それを美しいものと言って良いのか、という点については私は答えは持っていない。