2012年4月6日金曜日

LEGO Serious Play™ってなんだ?

3月末に、ボストンにてレゴ・シリアスプレイ(Lego Serious Play™。以下LSP)の研修を受け、公認ファシリテーターとしての認定を取得してきました。

LSPってどんなの?という疑問が湧くと思いますが、こんなものです。

どーん!

お分かりいただけましたでしょうか?いや、答えは聞くまでもないのですが、本当なら実際にやっていただくのが一番良いものです。というか、体験しないと分かりません。残念ながらそれはこの場ではできないので、説明していきます。

実は、R25で紹介されていたことがあります(こちら)。公式に近い情報としてロバート・ラスムセン・アンド・アソシエイツのページがあります(こちら)。だいたいのところは、このページを読めば把握できると思います。ただ、ここでは自分の考えの整理のため、という点もあって深掘りしていきます。ちなみに、研修は当のロバート・ラスムセン氏から受けました。そのまま引用します。
レゴ・ブロックを道具に使う、ユニークなアプローチで、 
・組織のビジョンや将来像創り 
・新たな戦略立案
・創造性の開発 
・個人のキャリア開発 
・チームビルディング 
といった、組織の抱える課題を可視化し、組織に内在する知恵を結集して、解決へと導きます。

というプログラムです。製品や何らかの分析手法ではなく、課題解決のためのプログラムです。また、コンサルティングではなくファシリテーションの手法です。引用された課題にLSPというプログラムが有効な理由は幾つか挙げられますが、ブロックを使って何らかのモデルを組み立て、それに対して自分なりの意味を与えること、やっていて楽しいことが核になっています。

 意味を与える

言語化とも言った方が良いかも知れません。人は自分の考えていることを完全に言語化できているわけではありません。意識下で渦巻いている、未整理の、意味付けられていない何かを、ブロックを組み替えながら探り当て、言語化することができます。また、上手く言語化できないものをモデルで表現することもできます。モデルを共有することによるコミュニケーションを通して、チームビルディング戦略構築状況把握に役立ちます。

 - チームビルディング

言うまでもなく、コミュニケーションはチーム作りの重要な要素です。しかし、いざ自分の周囲を見渡してみると、自分でやっているつもりのことと、実際にやっていることとは異なる場合が多いです。コミュニケーションについても同じことが日々起きています。言ったつもりのことと、伝わったこととは往々にして異なります。

LSPを使うと、自分の考えを言語とモデルの両面で表すことができ、また他人のモデルと組み合わせることでどのようなストーリーを描かれるかが見えるようになります。結果がどう出るか分からないこと(新事業など)に乗り出すときには、どこかへ向かうことを説得するよりも合意形成の方が重要になってきますが、目標とストーリーの共有によってそれを図ることができます。

 - 戦略の構築、動的な把握

戦略とは、「何をやるか」であり「どうやるか」ではない、というのはよく言われることですが、何をやるかが決まっても、具体的な方法論や必要なリソースが欠如しているために最初から成り立たないということもあります。

LSPの発展的な使い方として、ある目標に対する個々人の提供できる価値や、目標達成を促進したり阻害している要素もモデルで表し、それらの関連性と繋がりの強さを表すものがあります。企業戦略というと、BSCやSWOT分析などの手法が一般的であると思います(サンプル)。違いといえば、BSCが戦略要素を静的に記述しているのに対して、LSPでは動的に把握できるものになっています。

物事が計画した通りに進んでいれば良いのですが、なかなかそうはいきません。コントロール不能なものからすぐに潰せるものまで、色々なリスクや促進要因が潜んでおり、それらが絡み合って状況を作り上げているのが通常かと思います。その状況の変化に対して、何が起きるのか、何ができるのかを把握できるようになります。

 楽しい

ブロックをいじりながら何かを考えるのは楽しいです。シリアス「プレイ」という名前はこの点から来ていると思います。右脳の活用というのは、デザイン思考への関心が高まるにつれ、色々なところで取り上げられるテーマとなっていますが、手を遊ばせることで右脳から出てきた何かをキャッチして左脳の論理に乗せていくことで、右脳左脳の両方をフル活用することになります。これはとてもクリエイティブな活動です。チームで取り組むことで、多様な意見を取り入れられるようになる点、そして強制するのではなく自主的な参加を期待できます。

 - 全員参加

ダメな会議でよくあるパターンは、特定の人が大演説をぶちかまして残った人は黙って終わるのを待っているというものです。LSPに限らずファシリテーションにおいては避けるべき状況ですが、ブレインストーミングなどで出てきた意見もヒエラルキーによって排除されたりすることがあります。こうした場合、最終的には均一な意見しか出てこなくなります。

全員がモデルを作ってそれに意味づけを行う場合には、最初からバラバラです。上手くまとめられるかはファシリテーターの手腕によるところもありますが、基本的には全員が100%参加するということになります。ここでの基本的な発想は、多様性から利益を得るということです。

具体的には、前段の戦略構築などの場面においては、人によって見ているリスクやチャンスに対する評価が異なります。自分では思いもつかなかったようなことを見ている人もいるでしょう。こうした意見を集約することで組織としての目標に確度を高めることができるようになります。

 - 自主的な参加

やっていて楽しければ、強制されなくてもずっと続けるのが人間です。これは前述の戦略のところでもありましたが、ある目標に対して個々人が貢献できる価値を明確にすることも過程の一部にあります。

会社内での不満のなかで多いのは、給料や福利厚生のことよりも自分が何を求められているのかが分からないことだという調査結果を読んだことがあります(リチャード・ワーマン著「それは情報ではない」)。逆に求められていることが明確すぎても、決まりきった役割しか求められないのだという不満が出ることもあるでしょう。

上司は部下に何を期待すれば良いのかよく分からず、部下は何で貢献できる(したい)のかが明確でない。これはよく見られる状況だと思います。ここで、まず自分の提供できる価値(必ずしも具体的なスキルでなくて良い)という点を基点に考えられるようになります。

・・・

ざっと、LSPを用いることによってもたらされる価値、利点を書いてみました。もちろん、万能的に使えるというものでもありません。どういった場面で、どういった人や組織に使うのが良いのかを次以降では考えていきます。

2012年4月4日水曜日

カバーヨ・ブランコの死とニューエイジの書としてのBorn to Run

カバーヨ・ブランコが亡くなったというニュースを聞きました。「誰よ?」という人のために補足をすると、最近のベアフット系シューズの流行の元となった「Born to Run 走るために生まれた(以下、B2R)」という本の登場人物で、作者とタラフマラ族の間を繋ぐ存在として登場します。実在の人物です。

それが大きなニュースなのか、といえば、少なくともこの本を読んだことのある人にはそれなりに思うところもあるでしょう。実際にtwitteronyourmarkなどでも一定の反応があります。社会的な部分でいえば、ここ数年のランニングブーム、ナイキフリーを代表とした「裸足感覚」シューズの流行の流れなどはこの本抜きには語れません。

何故そうなのか、という説明にはB2Rを要約しなければならないのですが、この本には大きく分けては3つのテーマがあります。ひとつはランニング障害とその原因、ひとつは最新の学説に基づく人類学の提示、ひとつはタラフマラ族とウルトラマラソンのルポルタージュです。

ヒットの原因になったのは1つめのランニング障害が大きいと思います。既存のランニングの常識に疑問符を投げかけるもので、足底筋膜炎を代表としたランニング障害の原因を高機能ランニングシューズによるものとし、裸足で走ることで解消できるのだという内容です。

の理屈をもう少し正確に記述すると、クッション付きのシューズを使うことでカカトから着地するフォームで走ることになり、加えて靴の機能によって実力以上に走れてしまうので、負荷が過剰にかかって故障が発生してしまう。これを人体構造的に正しい走り方に直せば故障は発生しなくなる、というものです。

これはナイキやアディダスなどの大企業がクッショニングの研究を積み重ね、商品に反映していった末の皮肉な結果ではあるのですが、裸足云々よりも、肝は前足部から着地することです。クッション性の高い靴は、カカトが分厚くなっている分、どうしてもカカトから踏み込むようなフォームならざるを得ません。クッションがあってもソールが薄ければあまり問題はないと思います。

足底筋膜炎という故障はしつこい上にやたらと痛く、有効な治療法もないので悩んでいる人は多くいます。そういう人にとっては(私も含め)問題点に気づくきっかけとなりえる本なのですが、なかなかレビュー書けずにいました。残り2つのテーマに絡むところですが、この本の底流にあるニューエイジ的な要素が無視できないほど濃厚なのです。

ニューエイジについてはWikipediaの記述(こちら)が非常に分かりやすく、フェアに書かれているのでそちらを読んでいただくのが良いと思います。この本の基本的な筋書きとしても、ナイキなどの巨大資本がよってたかって作り上げた製品(高機能ランニングシューズ)によって痛めつけられた足を持つ作者が、カバーヨ・ブランコを通したタラフマラ族との出会いによって、自らのうちに隠されていた可能性を「発見」するという、ニューエイジによくあるパターンを踏襲しています。それに対して都合のよい学説をガンガン引用してくる。こうしたスタイルを抜きにしても、例えば社会に危機感が高まるとランニングブームが起きるとか、根拠はないがいかにもそれっぽく、また危うい記述がさらっと紛れ込んでいます。

この点を、作者は、二転三転するタラフマラ族の探索行や、引用してきた学説に基づく科学読み物的なお話、ウルトラトレイルランに関する様々な逸話によって隠しつつ、カバーヨ・ブランコという人物を中心としたウルトラランナー達の物語を大団円に導いていきます。

闇ボクシングに参加していたカバーヨ・ブランコにせよ、ヒッピー臭いベアフット・テッドにせよ、この本に登場するアメリカ人たちはどう見ても社会不適応者達ばかりなのですが、その辺りも上手くぼかして書きつつ、上記の物語類型のなかに押し込めてあります。この筆致の巧みさは特筆すべきものです。

という具合に、とても皮肉かつ批判的な書き方になるのですが、ニューエイジはカルトなんだからしょうがい。B2Rにしても、一部では裸足ランニングのバイブルだなんて言われていますが、そのように言っている人は気づかない間にこの本の記述の構造に取り込まれています。

カバーヨ・ブランコに戻ると、本名ではなくタラフマラ族から与えられた名前です(そのようです)。B2Rのなかでの彼は、神秘的な部族のなかに一人で入り込んでいって、彼らの秘儀を学んでメンバーとして認められ、作者との仲立ちをするというものなのですが、「世界ふしぎ発見」に出てきたタラフマラ族の様子をみるとけっこう世俗的というか、どこまでB2Rでの書き方が正しいのかは何ともいえないところではあります。

タラフマラ族といえば、アントナン・アルトーがその作品のなかで取り上げたことで有名(?)になりました。実は折口信夫も少しだけ彼らについて言及していたりします(いったいどこから情報を仕入れたのか?)。ベアフット・テッドが彼らに興味を持ったのも、こうした背景があるのではないかと思ってはいます。そのアルトーも、オクタビオ・パスによれば彼がタラフマラ族のもとを訪れた証拠がないらしいですし、どうも昔からある種の幻想を抱かせる対象なのかも知れません。

果たして亡くなったのがカバーヨ・ブランコなのか、それとも身元不明の放浪米国人なのか、彼にとってどちらか良かったのかは最早誰にも分かりませんが、そのあり方が本人にとって納得のいくものであったことを願うばかりです。