2012年4月13日金曜日

生活考察

『生活考察』という雑誌があります。

たまたま存在を知って手に取ったのですが、抜群に面白いです。発行人の方は、普段は派遣で働きながら一人でこの雑誌を作っているとか。

名前のまま、生活について考察する雑誌です。発行人の方の言葉を借りてきましょう。
本誌は、タイトル通り、〈生活〉について考えることをテーマにしています。 
よって、“ある種の”ライフスタイル・マガジンではあります。 
しかしながら、いわゆる定石の「理想の生活」「ワンランク上の生活」及び「理想の生活を実現するためのアイテム」等にとりわけ重きを置きません。 
かつ雑誌をあげて提案する「スタイル」もとくに持ち合わせておりません。 
むしろハナから「スタイルの提案」を放棄し、積極的に多様なスタイルにまみれてみること――そこから、現代を“楽しく”サヴァイヴするための術・発想・考え方を模索していきたいと考えております。 
実用的な情報ばかりにとらわれ、「考えようによっては得るところがある」かもしれぬ〈何か〉を取りこぼさないように。 
「生活考察」は、〈生活と想像力〉をめぐる雑誌です。

表紙はこんな感じです。



インディーズ雑誌の割には執筆陣がいやに豪華です。内容はといえば、「生活のなかの○○」などといった形でテーマが限定されていないせいか、皆さんそれぞれ自分の生活をそのまま書いたり、生活についての考えを書いたりと、十人十色です。

どれも読み応えがあって面白いのですが、個人的には、「わたしの Music for Dishwashing」という、皿洗いをするときにかける音楽についての懇談が好きです。エイフェックス・ツインを聴きながら皿は洗えないとか、『ボーン・スリッピー』を聞くと皿洗いをしたくなるとか、しょうもないようで実は深い話が繰り広げられています。

上の引用のなかで、サヴァイヴというキーワードがあるのは、とてもいいなあと思います。生活というのは、ミニマムなところでは単純に生きていくだけですが、お腹は減るし、何かと物入りだし、従ってお金はかかるし、面倒な用事はあるし、外出が億劫なこともある。

彩りは必要ですが、彩るものでもないし、ある目標に向かって生活の全て調整していくなんてのも息苦しくてやってられないわけで、のらりくらり、どうにかこうにか日々をサヴァイヴしていくというのは、わたしの生活実感に近いものがあります。

といいつつ、そんな肩肘張ったところもなく、緩やかに読めます。扱っている本屋は<ここ>で確認できます。

ターミネーター誕生?

は、大げさにしてもけっこう怖いですねこれ。再帰的ライフゲーム。

『火の鳥』の未来編でマサトが無限大/無限小へのダイヴに付き合わされて衝撃を受けていたシーンを思い出しました。

学生時代、複雑系とかにハマっていた時期があって、ライフゲームについてもカンブリア爆発を起こすんだとか、そういう研究を行っている人がいるのを覚えてましたけど、久しぶりに見ると随分と進化してるものだなと感心しきり。


レゴのマインドストームで作られた自動車工場を見たときにも、やっぱりターミネーター生産工場かと思いましたが、ライフゲームの方が勝手に進化していく分、怖さがあります。


2012年4月11日水曜日

LEGO Serious Play™ その3 偶然と模倣のあいだ

シリアス・プレイって、何だか妙な表現ですよね。なんだ?シリアスなプレイって。ふざけてるのか。責任者を出せっ。

この場合のSeriousは、本気とか本格的といった意味合いで、真面目とか厳粛とかいう意味ではありません。Playの「遊び」は、機械の可動範囲などの遊びや、レクリエーションを意味するものではなく、子供のやる遊びです。ただし、「遊び」とは何か、ということになると、明確に応えるのが難しいものでもあります。反対側から眺めてみると、ブライアン・サットンスミスによれば、遊びの対義語とは、仕事や業務ではなく抑圧だそうです。

「遊び」と人間の関係といえば、ホイジンガのホモ・ルーデンス論やロジェ・カイヨワが思い浮かびます。カイヨワは『遊びと人間』において、遊びを下記の4つの要素に分類しました。

  • アゴン:競争
  • アレア:偶然
  • ミミクリ:模倣
  • イリンクス:眩暈(めまい)

競争と模倣は何かを構築するものであり、偶然と眩暈は状況を流動化させるものです。どこか左脳と右脳の違い、あるいは前回の記事のエンジニアリングとブリコラージュの違いを思い起こされます。ちなみに、分類しているといっても、特定の遊びがどれかに属しているということではなく、どの要素を持っているかを把握するための取っ掛かりとするものです。

レゴ・シリアス・プレイに関して言えば、偶然と模倣の間を行き来しています。意図せずに使ったブロックの色や形に意味が見出されたり、作ったモデルのなかに自分の考えを発見したり、他の人が作ったモデルとの関連性を発見する過程には偶然の力が発揮されています。また、モデルを作った後で何を意味しているかを説明するとき、モデルを個人の喜びなどの説明している内容に模倣させています(その相手は自分だったり、隣の人だったりします)。

前回紹介したブリコラージュの実例には、流動化した状況(洪水)のなかで既存のものの新たな使い方を発見したものが幾つもあります。その発見の過程は遊びと呼べるものもあったことと思います。

絶対、何度も浮かべたでしょうね
子供は遊びの天才であるとよく言われます。これは自分の手にしたモノが何であるかという認識が、大人ほど堅固でないことによるのでしょう。そして、遊びを通してあれやこれやのモノが特定の目的、手段のために作られた道具であり、自分が身を置いている環境がそうした道具たちの関係性の総体であることを「発見」していきます。

ここで子供の遊びと大人の遊びの差が何なのかと言えば、ゼロから環境を発見していくのか、それとも一度出来上がった認識をリセットしながら次のステップへと進んでいくかの違いなのだと思います。そのために、大人はより多くのエネルギーを消費(ガソリンとかスポーツドリンクとか)するのかも知れません。ともかく、発見のプロセスであることには変わりはありません。

ただし、それには今の状態(自覚しているものも、まだ形になっていないものも)を把握する必要があり、とりわけ言語化されていないものに形を与える必要があります。レゴのブロックはそのための仕掛けの一つということですね。

2012年4月9日月曜日

LEGO Serious Play™ その2 ブリコラージュでやってみる

LEGO Serious Playをどういった場面で使うかという点について。わたしはLSPで食っていく立場ではないので(とりあえずは)、あえてビジネス的な場に限定はしません。

レゴのブロックを作り変えながら自らの思考を発見していくプロセスは、根本的にはブリコラージュ的な活動であると考えています。ブリコラージュは、理論と計画に基づいてものを作っていくエンジニアリングに対置される概念で、そこら辺にある有り合わせのもので試行錯誤しながらものを作っていくことを指します。

元はフランス語で、レヴィ・ストロースが『野生の思考』において・・・という話をする気はありません。『OL男子の4コマ書評』というブログに、異様に分かりやすい上に的確な記述があるのでそっちを読んていただけると、より理解が深まると思います。

また、ブリコラージュでGoogleイメージ検索をすると、こういう画像が出てきました。



やはりブリコラージュを扱った記事(リンク)に載っていた、洪水のときにタイの人々があり合わせのもので作ったもののひとつです。こういうものを見ると、わくわくしませんか?

海外サイトですがこちら(リンク)でも大量に見られます。街が水没しているのに、写真に出てくる人たちが妙に楽しそうに見えるのは、こういう創意工夫をやっているおかげなのではないかと思えたりします。

しかし、世間を見渡すとエンジニアリング的な方法や発想(無駄なく、効率的に、確実に)の方が一般的であるように思えます。確かに現代社会を維持しているインフラ(原発も含め)や、飛行機や自動車などはエンジニアリングの賜物ですし、身近にある大量生産品はエンジニアリング的な計画に基づいて生産されています。それでも、新しいものを作るときにはブリコラージュ的な試行錯誤(ラピッド・プロトタイピングなど)を経ているものだと思います。

何を売るかが明確な時代には、できたものをエンジニアリングによって再生産する能力が重視されていました。ただ、今はエンジニアリングが成り立つ条件そのものが流動的になっているため、解決されるべき課題を発見したり、解決策を発見することが重要になっています。そして、往々にして発見というものは、既にそこにあるもののなかにあったりします。

話をLSPに戻すと、LSPでは頭で考えるのではなく、モデル(手)で考えるという言い方をします。講習を受けたとき、本当にブロックを使って説明できるのか不安がありましたが、意外とスムーズにできて驚きました。そもそも、ブリコラージュというのは人間が本来的に持っている能力です。その能力を個人のなかに「発見」し、集団で発展させていく方法論が組み込まれている点がLSPの優れている点なのだと思います。

こうした利点がフルに発揮される場として、アジャイル開発を行いたいソフトウェア会社や、広告会社の企画部隊などが思い浮かびます。実際にロバート・ラスムセン・アンド・アソシエイツのウェブにある実績(リンク)を見ると、近い分野が挙がっています。

組織としてのクリエイティビティというのが、ひとつ鍵なのでしょう。一方で、ブリコラージュ的な知性や方法論を生徒に身に着けてもらいたいと考える教育機関があれば、そこでも実行できることはあると思います。

個人的には、こうした学習的側面や、LSPの持つまだ言語化されていないものに形を与えるという機能に注目しています。

※どうやら引用した画像はタイではなくベトナムのようなのですが、ブリコラージュであることには変わりないのでそのままにしています。
※蛇足ながら、わたしはエンジニアリングの人だと思われることが多いのですが、自分では完全にブリコラージュ型だと思っています。「何かを作るときにはあらかじめ人に説明して、有言実行しなさい」といったお説教を食らったことも何度かありますが、どう落着するか分からないことをやっているのに、そんなのは無理だなあと思ったことがあります。だいたいそういうお説教をかます人に限って、出来合いのものの消費者でしかなかったりするのですが。問題解決の方法も、システムやツールによるものだけとは限りません。まずは何が問題なのかを把握した上で、その思考の枠から外れることが肝心なのだと思います。

2012年4月8日日曜日

街の桜

自宅近辺の桜の様子をアップ。よく言われる通り、桜って撮るのが難しいんですよね。けっこう真剣にやってみましたが、自分の腕ではまだまだ。夜桜なんてほぼ全て失敗だったと思います。しかし、よくよく考えてみると、別に桜を撮りたいわけじゃないんですよね。というわけで地元の方々の日々の営みと桜との組み合わせにて。