2012年4月30日月曜日

caf´eから時代は創られる


caf´eから時代は創られる(飯田美樹著)』を読了。面白くて一気に読んでしまったのですが、刺激に満ちた読書でした。


まともな書評については、中原先生のブログ(リンク)を読むのが良いと思います。

タイトル通りカフェに関する本ですが、いわゆるカフェ本ではなく、ピカソや藤田嗣治、アンドレ・ブルトン、モディリアニらの新しい才能を生みだす場として成立していたカフェについて書いた本です。

ここでいう「カフェ」とは、後世に天才と称されることになる人物達が、独立した才能としてはじめから存在していたのではなく、なにかしらの場や人々との繋がりを通して天才に「成って」いく場、中井久夫氏の云うところの小集団現象としての天才を生み出す場です。

特に興味深かったのが、女主人の運営するサロンと、商売として営業しているカフェとの比較を通して、後者が上述のような場として機能した理由を分析したくだり。

サロンでは、女主人が自らの私財を投げうって料理や飲み物を来客へ提供していることから、その場で交される議論に純粋なプレイヤーとして参加できないために、色々な配慮や軋轢が生まれてしまう。その反面、カフェの店主はあくまでもサービスの提供者であり続け、そこで繰り広げられる会話の内容には深入りしないために議論が深まっていったとのこと。

この本のなかでは、未来の天才たちが共通に持っていた、自分の考えを簡単には人に明かさない点が強調されています。これは過去に彼らが周囲や社会との摩擦のなかで身に着けた特質ですが、この点を考慮すると、店主が口を挟んでくるなかでは議論が深まる前に口を閉ざしてしまう結果が簡単に予想できます。

もちろん、趣味でやっているサロンと、ビジネスでやっているカフェとでは主人の関わり方が異なってきますが、積極的に介入しない方が上手く回るというのは興味深いですね。こういう現象は、色々なところで見られます。

網野善彦的にえば、サロンは有縁の場であり、カフェは無縁の場です。

サロンにおいて、その場を取り仕切っている女主人へ反対意見を表明することは、その関係に含まれている偏っていた部分(恩着せ)が負債に転化してしまう可能性があります。分かりやすく言えば、縁がしがらみになってしまう。

反面、無縁の場であるカフェにおいては、コーヒーやパンの代金を払った時点で、既に店主と客との関係は完結しているため、しがらみに転化するような強い縁が生じることはありません(繰り返せば発生しますが)。

大名達からも特権を認められた、無縁の自由都市である堺が発展し、巨大な富が生まれ、千利休を代表とした茶の湯が生まれてきたことと、あぶれ者であった芸術家達が集まって切磋琢磨しあいながら才能を開花させていったカフェとは相似形を描いていないでしょうか。

なんだか話がズレましたが、有形無形を問わず、何らかの「場」を作ろうとするに当たっては様々なインスピレーションが得られる本です。とりわけ、