2012年1月7日土曜日

エル・ブリの秘密

銀座シネパトスにて、『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』を観てきた。以下、ネタバレ的な内容を含むのでご注意を。


エル・ブリについては名前を聞いたことのある程度で、それ以外では、日本料理に影響を受けているとか、斬新なプレゼンテーションで食べる人の度肝を抜くとか、菊地成孔の本『スペインの宇宙食』というタイトルはここから取られたとか、エピゴーネン的なレストランが増えているといった程度の断片的な情報を持っていただけである。

映画はエル・ブリが新メニュー開発のための休みに入るところから始まる。様々な食材を様々な方法で調理し、メニューに組み込める食べ方や使い方を探求していく。ここでの様子は調理というよりも完全に実験である。通常であれば調理には使わないようなものも登場するが、それも料理を突き詰めていった先にある、合理的な選択の結果であることが後で分かる。

この段階で興味深かったのは、"実験結果"のレシピのデータが飛んでしまったときに、記録は紙に残してあるから大丈夫だと主張する料理長と、データで残しておくことにこだわるフェランとのぶつかり合いだった。

料理人はそれぞれ、素材と調理法の組み合わせのデータベースが個々人のなかで出来上がっているものだと思う。しかし、既存の料理を乗り越えていこうというエル・ブリのやり方のなかでは、過去に自分たちが発明した方法であっても二度と適用しない。こうした背景もあり、この場面はフェランがデータで残した実験記録を過去のそれと照らし合わせながら、何らか自分なりにインデックスし直していることを匂わせるものだった。

"実験"が終わり、シーズン開幕ということでレストランに戻ってくる。この段階でも、ある程度の方向性は見えているものの、具体的なメニューは決まっていない。その上、新人を含めたレストラン全員のチームワークも料理と同時に作り上げていく。ここでもフェランは全体に檄を飛ばす程度で、具体的なオペレーションには介入せずに料理長たちに任せている。

すったもんだしながらメニューができていき、エル・ブリがオープンしてからも、お客の反応を見たり、料理を出す横でフェランが試食しながら調理の微調整を行っていく。事故のような発見もありつつメニューが完成する(写真に撮られて固定される)。

全体を通して印象深いのが、フェランのコントロールの効かせ方だった。実験段階では電話ばかりしていて、料理長たちのアイデア出しや即興に寄り添いつつ、方向性を指し示す程度の関わりだった。求められない限りはそれほど手を突っ込んでいない。オープン前も、メニュー作りとオペレーション体制作りの二方面作戦だがあれこれ指示を飛ばしたりはしていない。最終のメニュー確定という段階になって、ようやく仕上げに腰を上げるという具合だった。

世の中、色々なマネージャーがいると思うが、このように自分のチームを信じられるということ自体がフェランの稀有な人間性を表していると思う。勿論、そこには目に見えないコントロールが張り巡らされていて、放置しているわけではないのだろう。この点は全体を通しての料理長たちの痛いほどの緊張感から十分に伝わってくる。

これに近い姿として、イタイ・タルガムによる指揮者の話のTED Talkを思い出した。プロセスを作り、クリエイティビティの発揮される場の条件を準備するカルロス・クライバーの方法や、無為の為とも言えるレナード・バーンスタインの方法である。

映画のなかで、エル・ブリに食事をしに来たお客さんが料理を出されたときや食べたときの反応を示す場面は1カットもない。料理よりもクリエイティブが駆動するプロセスに集中している。このストイックさが潔くてとても良い。

ソクーロフによるファウスト

ソクーロフの『ファウスト』が今年劇場公開されるらしい(見てきた感想はこちら)。トレイラーを見ると相変わらずの色調と音響が身体の奥のほうに響いてくる。


レーニンの『牡牛座』、ヒットラーの『モレク神』、昭和天皇の『太陽』に続く権力者4部作の総仕上げになる作品とのこと。これらの作品に共通しているのは、権力者を偉大に見せるための通俗的なストーリーや取り巻きの視点からは離れて、人間としての彼らのあり方を切り取っている点。

『ファウスト』といえばゲーテの戯曲。新潮文庫から出ている高橋義孝訳のそれをドイツへの長期旅行の際に何度か読んだ。自分としては陰惨な感じのある第一部よりも第二部の方が好きだったが、細部は忘れてしまった。

ソクーロフによる『ファウスト』は第一部を映像化したようで、読み返しておく必要があるかも知れない。ただ、実在した人物たちを扱っていた権力者四部作の仕上げにフィクションを持ってくることは筋が合わないので、恐らくこれはゲーテやトーマス・マンの作品のオリジナルである、実在したゲオルク・ファウスト博士を映画化したのではないかと思う。

このゲオルク・ファウスト博士には色々な伝説があるものの、著作が焚書のために消失していたりするせいで実像が極めて分かりづらい人物のようだ。彼にまつわる無数のフィクションが存在するという意味ではソクーロフが取り上げた他の権力者たちに近いものがある。

最終的には救済が訪れるゲーテのファウスト博士とは異なり、実在のファウスト博士は変死を遂げていたらしい。観てみないと何とも言えないが、"第一部"を映像化しているのはそういうことなのではないかと思う。

2012年1月5日木曜日

食事処の選び方

食べログにやらせ問題が起きているようだけれど、CGM的なサイトで完全にやらせ的なものを排除するのは難しいだろうと思う。自分の場合、あの手のサイトは知らない土地に行って食事をする場所の見当をつけるために使うもので、食べに行く場所を決めるためのものではない。

外食産業には詳しくないが、新幹線に乗ってまで食べに来るようなお客さんは例外だろうし、飲み屋街にあったり、企業の接待によく使われるようなお店を除けば、徒歩圏内にいるリピーターのお客さんの方が多いんじゃないかと思う。どこに出店するかで客層は違うし、お店の雰囲気も変わってくる。

街中を歩いていて、ふと目に止まったところに入ってみる。入ってみて、匂いや音を頼りに食べるものを何となく決める。歩きながら感じているものとフィーリングが近いお店には外れがないと思う。今住んでいる場所が気に入っているのも、こういう場所が割と多いことがある。

2012/1/5

今日が2012年の仕事始め。会社へ向かうバスのなかで、他の乗客たちの靴が手入れされていないのが気になった。自分もそれほど真面目に靴をケアする方ではないが、寒々しい印象を受けるので気をつけようと思う。

2012/1/4 2

『柳宗理 エッセイ/柳宗理/平凡社』を読了。

2012年1月4日水曜日

{r}evolution apparelの試み

他国への影響の大きいアメリカの消費習慣を変えれば、世界を変えられる。洋服のデザイン、製造、消費のされ方を変えること。綿に用いる殺虫剤、環境を汚染する着色料、低賃金労働者、使い捨ての洋服に対抗するために、サステナブルな洋服をデザインする。シンプルで着回しのきく(15通りの着方ができる)、アメリカ産で、100%リサイクル繊維の洋服。

誰が何と言おうと、アメリカはアナルコ消費社会である。モノを買いまくり、肉を食べまくり、ジムで運動してカロリー消費して、働いて食べてネットで消費する・・・というステレオタイプはある。わたしの知っているアメリカ人はもっと穏やかであるが、サブプライム問題が起きた背景を考えると、やはりこうした文化は存在している。

エコやサステナビリティをテーマにしたアパレルは幾つかは知っている。パタゴニアやマザーハウスなどは、近い哲学に沿ったものづくりをしている事例だろう。この人達の場合、そこからもう一歩踏み込んで、消費者の購買行動を変えることを射程に入れている点が面白い。企業としてのあり方、デザインにも時代性が現れているなと思う。

2012/1/3

『チャンピオンたちの朝食(カート・ヴォネガット・ジュニア 浅倉久志訳/早川書房)』を読了。

2012年1月3日火曜日

2011年

   忘れねばこそ 思い出さず

吉原の高尾太夫が伊達綱宗へ贈った唄の一部である。寵愛する高尾太夫に久しぶりに会ったとき、綱宗は自分のことを思い出すことがあったかと尋ね、そんなことはなかったと返されてがっかりして帰る。その帰路の途中で届けられてきたものである。野暮なことは聞くものではない。野暮な返し方もまたするものではない。

とある噺家は「思い出すよじゃ惚れよが薄い」とまとめた。現代語訳すれば、「片時も忘れたことはありませんので、思い出すこともありません」となる。どうしてこんなに味気なくなるのか。全文引用する。
ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。 
御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。 
御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。
うっすらと熱と湛えたこの唄とはまた異なった形で、2011年に起きた出来事の幾つかは、思い出されないまま、日々の営みのなかに様々な形で顔を出してくるのだろうと思う。

地震の後で突然、Living well is the best revengeという言葉を思い出した。スコット・フィッツジェラルドが『夜はやさし』の主人公夫妻のモデルにした、マーフィー夫妻の生活を描いた本の題名である。邦題は『優雅な生活が最高の復讐である』。R.E.M.にも同名の曲がある。元はスペインの諺で、当のジェラルド・マーフィー氏が発見したことになっている。何に対する復讐か。

人間の尺度を超える出来事に対して、人間は無力である。年が変わったからといってその点は変わらない。良かれ悪しかれ、出来事は時間や距離や統計などとは無関係、無意味にただ起きる。そこには何の意思の働きもない。そこに何かを読み取るのは人間の勝手である。ただし、人為の及ぶ事柄についてはその限りではない。


復讐とは、諦めないことの裏返しである。わたしはせめてもの抵抗と呼ぶ。

2012/1/2 3

ナシーム・ニコラス・タレブの『ブラック・スワン』を読み返しながら、去年あったことについて思い返していた。
本質的に未来は見えないものだ。ただし、その見えない領域を広げていかないと、未来はない。不透明な領域に踏み込んでいくときに重要なのは、そうした領域に踏み込んでいくことに対する関係者間での合意形成とその過程であって、求める結果の裏付けを提出することではない。事実上、合意形成以外のことはできない。
合意形成は意思決定ではない。ここでいう意思決定とは承認のことである。そして形成された合意に基づいて各人が動くことにある。この点が狂うと上手くいくものもいかなくなる。

2012年1月2日月曜日

2012/1/2 2

初詣の予定が少し狂ったので、買い物にでかけて財布を新調してきた。さすがに6-7年使っているとあちこち壊れてきていたので、ちょうど良いものがあって良かった。

2012/1/2

Style Forum Special from Music Guy on Vimeo.


トム・フォードのインタビュー。一人で喋っているときにはそれほどでもないのが、モデル達と話をするときのオネエ口調とのギャップには少々びっくりする。あえて言うなら、通常(?)の喋り方は『アメリカン・サイコ』でのクリスチャン・ベールに似ている気がする。トム・フォードにとっては迷惑な話だろうが。

面白かったのは、洋服をDesignするのではなく、服、ブランド、店舗をBuildする、Makeするという言い方をしている点。建築を学んでいたことによるものだと本人は語っている。ディテールに対して、そのように作られている理由を問いかけながら服を作り上げていくというプロセスも建築に由来するものと語っている。

もうひとつ興味深かったのは、コレクションに出ている服をPersonalizeしている人を見るのが好きだということ。当たり前のことかも知れないが、デザイナーが提案するスタイルを自分の文脈にどのように取り込むかが重要なのである。

2012年1月1日日曜日