2012年5月12日土曜日

地図を更新すること - 『三つの旗のもとに』

ベネディクト・アンダーソン、『三つの旗のもとに―アナーキズムと反植民地主義的想像力』が出版された。原著は持っていたがなかなか読み終わらなかったし(およそ3年放置)、読解のためには日本語の方がやはり助かる。
タイトルにある「三つの旗」とは、フィリピン独立のための秘密組織である「カティプナン」、キューバの旗、そしてアナキズムのシンボルである黒字にAの文字が白抜きで入った旗を指している。要約の難しい本だが、電信や交通手段の発達によって発生したアナキスト同士のネットワークの視点からグローバリゼーションを捉え直すのが大きなテーマの一つとなっている。

キューバで起きた反植民地運動と武装蜂起の1年後に、それに呼応するようにフィリピンでもナショナリストの蜂起が行われる。これらを繋いでいたのがアナキズムであるというのが、基本的な見とり図である。国境を明確な区切りとして捉えるとき、ナショナリズムとアナキズムとは相反するものとして位置づけられるが、人と人の繋がりとして捉えたときには別の意味をもってくる。

本のなかでは、フィリピンでの反植民地運動と日本との関係の例として、独立運動によりスペインから弾圧され横浜に亡命していたホセ・リサールと、自由民権運動家でありジャーナリストであった末広鉄腸との交流が登場している。リサールに関しては日比谷公園に胸像があるものの、末広鉄腸などは日本史の教科書には滅多に登場しない人物であり、こうした周縁的な存在であった人物が浮かび上がってくるのはこの本の特に興味深い点である。
通常、新聞などで見聞きする、一般名詞として用いられるグローバリゼーションという語は、もっぱら経済活動としてのそれに意味が限定されている。しかし、アンダーソンのいうグローバリゼーションは、ある場所で生まれた理念や思想がローカルな土地で固有の意味を持ちながら、人々を駆動していくプロセスを指している。上記の末広鉄腸とホセ・リサールの交流などはその典型的な例である。
読みながら、以下の図を思い出していた。『デザインのデザイン(原研哉)』に載っていたもので、関連のテキストごと引用する。
これは僕がよく例に挙げる図で、高野孟(たかのはじめ)さんの「世界地図の読み方」という本を参照したものですが、ユーラシア大陸を90度回転させてみますと、ユーラシア大陸はパチンコ台に見立てることができます。

そうすると、日本はちょうど受け皿の位置にきますね。一番上の方にはローマ。文化はシルクロードを通って、中国、朝鮮半島を経て、日本に文物が伝わったと、一般的には言われていますが、当然パチンコの玉は跳ね回りながら進みますから、ある一定のルートからだけではなく、いろいろな方向を進みます。文化もそうじゃなかったかと思うんです。インド経由で東南アジアから海のシルクロードを通ってきたものも当然あるだろうし、ロシアのほうからカムチャツカ半島や樺太を経て入ってきたものもあると思います。椰子の実のように、ポリネシアの方から漂着したものもあるかもしれない。つまり、日本というのは世界中の文物の影響にさらされてきたのです。


文化の流れを強調するため、ローマを頂点として日本まで流れる図になっているが、実際にはこれらの関係は双方向であり様々な繋がりがある。それでもこの図が重要なのは、視点の転換を見事に表しているからだ。

この図や、アンダーソンの観点でグローバリゼーションを見ると、経済のグローバリズムでよく言われる2極化、金融資本やグローバル企業が軽やかに国境を超えていく動きと、国境なき市場で行われる激しい競争から脱落したり、参加できない人間がローカルなコミュニティのなかに閉塞していくことの対比という構図が、かなり矮小化されたものであることが理解できると思う。


これは一断面ではあるが、全てではない。より豊かなものを引き出していけると思うし、またそうしなければならないそのためには、貨幣の動きだけを追うのではなく、人と人の交流や、電信によって情報の拡散が容易になった結果、テロリズムが世界中で連鎖することになったような、新しいテクノロジーがもたらす結果や効果を検証し、追いかけていくことが重要なのである。

地図を90度回転させるだけで、世界はずいぶんと違って見えるものだ。ここに二重三重の意味を重ねていくのは、これから自分がやらなければならないことだと思う。そのためには、日本語と英語だけではどうも狭い。

2012年5月7日月曜日

言語による論述スタイルの違いについて

今年のGWは引きこもって読書と考えていたが、最終的には1500ページぐらいだった。

読む本にもよるのでこれで多い少ないはあまり意味がないけれども、多読しているよりも一冊をちゃんと読んだ方がいいような気もする。ただ、一冊を「ちゃんと読む」というのは難しくて、関連する本を並べながら共通する部分を取り出して差分を整理していく方が、少なくとも自分にとっては効率が良い。また、本というものは常に他の本との関わりのなかに存在しているので、一冊だけ読むというのはそもそも、あまり意味のない話であったりもする。

読もうと思っていたジャック・ドンズロの『都市が壊れるとき』や、構成主義の勉強でピアジェの本など読もうと思っていたが、進まなかった。どうもフランス圏の本は読みにくい気がする。表現やレトリックの問題もあるかも知れないが、これはフランス語特有の記述の方式もあるんじゃないかと思ったりもする。



カプランによる、各言語のコミュニケーションや記述のスタイルをまとめたこの図はけっこう面白い(なぜか、ずっとフーコーだと思い込んでいた)。それぞれの言語には複数の言語が含まれていて、例えばEnglishにはドイツ語、オランダ語、ノルウェー語、デンマーク語、スウェーデン語などが含まれる。これらの特徴をまとめると、

  • 英語:テーマから話が脱線したり、主題から離れることはなく直線的に進む
  • セム:テーマと、それに対置される考えの間を行ったり来たりする
  • 東洋:直接的でなく、テーマの周りを様々な視点から語る(日本語、中国語など)
  • ロマンス:しばしばテーマから脱線するが、脱線もまた豊かさのなかに含まれるため問題ない(フランス、イタリア、スペイン、ルーマニアなど)
  • ロシア:ロマンス語と同じようにしばしばテーマから脱線するが、テーマに対置される考えも含む

フランス人やイタリア人の話に脱線が多い、というのは話をしていると確かによく感じることで、笑える点ではある。むしろ、あいつらほぼ脱線だなと。

実際のところ、この分類はインド・ヨーロッパ語族の上での分け方に合わせた方が分かりやすい気がするが、これらの言語の成立の流れ、ギリシャ語からロマンス語(ラテン)とロシア(キリル系)に分かれ、ロマンス語から英語へと言語が発展していった流れを考えると納得できるものがある。

文字の上でもアルファベットとキリルで分岐している。宗教上のことも、ざっくり分けるとカトリックと正教徒とで分かれるのではないかと思う。ルーマニアは正教徒なので、言語と一対一で対応しているわけではないけれども。

翻訳について考えるときにも、この論述スタイルは考慮しておく必要がある。多くはドキュメントの構成の段階で決まるものだが、この分け方でいえば、テクニカルコミュニケーションというのは英語のスタイルに近いものになっている。単線的で、誤解を産まない表現が求められる。

日本語で書いたPR文などは、翻訳しても使えないというのが業界では定説になっていると思うが、恐らくこの記述スタイルの問題がある。ひとまず英語に訳した上で再構成するという手段が取られることが多いが、多くのサンプルで比較してみると、上記のグルグルをまっすぐな↓に近づけている部分があるのではないかと思う。