2012年12月31日月曜日

ファスビンダーと美しきヒロインたち

渋谷のイメージフォーラムで上映中のライナー・ヴェルナー・ファスビンダー特集、『ファスビンダーと美しきヒロインたち』に行ってきた。ネタバレを含むので注意。

彼の作品を観るのはこれが初めてで、これらの作品の背景となっている戦後のドイツ社会の変化についても、どうしても把握しきれないところがあるが、そうした点に関する深い洞察が無くても楽しめてしまう物語的な面白さと、そこに留まらない表現力にはとても驚かされた。

未知の映画監督の作品を観るときには、自分の場合には例えばカサヴェテスのときもそうだったが、色んな作品を横串で観た方が良いと最近は思うようになってきている。こうしたイベントの場合などは、企画している人の意図について後から考える材料にもなるし、素人が盲打ちで観ていくよりはよほど精度の高い見取り図を得られる。詳しくなった後であれこれ文句を言うのも含めて、色々な面でお得である。

ドイツというのは、わたしにとっては近くて遠い国で、知識のマップがまだらになっている。そういうなかで、この3作品に触れて、ドイツ社会の規範性の強さや、それと相反するような集団で動く際の倫理性の欠落、またそれらが個人(あるいは、もっと限定するなら愛)をどのように規定するかという点が問題になっているのだろうと思う。

規範性の問題が最も色濃く出ているのが『マルタ』で、ジェットコースターでゲロ吐いてるところでプロポーズをしたり、日焼けしすぎで真っ赤になっているところでマルタを抱くなど、明らかにマルタの夫であるヘルムートの行動は異常なのだが、マルタは友人にそのことについて相談しつつも、その事実を体面を気にして覆ってしまう。一方でヘルムートは自分の行動はマルタを愛するが故のものだと説明するが、彼はマルタがあるべき夫婦の規範に囚われるタイプであることを理解して、自覚的に行動している。

しかし『マルタ』のこのシーンは凄い

倫理性の欠落については、『ローラ』がそれに当たるが、それが元々あるのではなく、様々な人を巻き込みながら達成されるものとして描いている。堅実で汚職など許さないフォン・ボームがローラへの愛が故に敗北し、ローラはフォン・ボームと結婚しながらシュッケルトから娼館を譲り受けもする。

観たなかでも最も面白かったのが『マリア・ブラウンの結婚』だったが、この作品に関しては、規範性と倫理の問題、また愛の問題のバランスが最も良く、また構造としても分かりやすい。主人公のマリアは、上記のローラと同系統の人物だが、『ローラ』が群像劇であったのとは異なり、マリアを主人公としたピカレスク・ロマンの色合いが強く、マリア個人の背景がもう少し詳しく描かれている。

マリアがローラと同じ系統の人物であると書いたのは、彼女が自分に向けられた愛を利用して様々なものを手にしていくことに由来している。『マリア・ブラウンの結婚』における登場人物たちはそれぞれに求めるものに渇望を見せており(彼らはしばしば、オブセッシブに煙草を吸ったり、ピアノの鍵盤を乱雑に叩いたりする)、主人公のマリアだけはそうした執着とは無縁だ。マリアにそれを可能にしているのは、結婚してはいるが夫が不在であるという状況であり、また不在の夫を愛しているという言表である。
「じゃがいもがなきゃ大根を使えばいい。でも、愛にだけは代用が効かない。どうして愛する人はただ一人なんだろう。」
上記は愛に関する作中のセリフである。言い換えると、彼女は代用不能なものを餌にして、交換可能なものを手に入れている。マリアはとりわけ、夫が身代わりで刑務所に収監されてからは、この構造を自覚的に利用しはじめる。

自分の持つ力を冷静に、自覚的に運用する点ではマリアと『マルタ』におけるヘルムートも同じだが、ヘルムートが不快なのは自らの保身に使っている点にある。『マルタ』の後味の悪さは、マルタとヘルムートの間に横たわる規範性が、作中で不動のものとして固定されてしまうところにある。

一方で、マリアに魅力があるのは自らの役割をひっくり返し、経済的主体として「自らを確立した」ことで合理的な自己目的に向けて最適化されている点にある。そうした在り方は、レッセ・フェール的な市場における適切解であり、彼女はやはり『ローラ』の登場人物たちと同じ場で活躍する。この見立てでいくと、『ローラ』におけるフォン・ボームは、不正を許さない穏やかな紳士として描かれているが、市場統制派なのだろう。

マリアに戻ると、自分を支えてきた構造が崩れることになるからこそ、夫が急に釈放されることが決まったときには喜ぶよりも先に狼狽したし、その後で夫が本当に戻ってきたときにも複雑極まりないな表情を浮かべることになる。

最大限の抵抗として夫に全ての財産をくれてやることで男としての存在感を無くし、夫不在の状況を作ろうとしているが、それもビジネスパートナーとの取り決めによって対等の財産を手にすることが判明し、彼女を支えていた空白は埋まってしまう。終始一貫して執着とは無縁だったマリアが、その象徴としての煙草に火を点けることで物語の幕が下りる。

マリアはあらかじめ求めるものが失われているが故に、何でも手に入ることができる。この物語構造は、全てを持っているが肝心なものは手に入れられないという、『市民ケーン』でも有名な人物造形を裏返したものだ。不在の夫から定期的にバラの花が届くのはオーソン・ウェルズへの目配せと考えるのは、穿ちすぎだろうか。