2012年6月4日月曜日

ソクーロフによる『ファウスト』観てきました

銀座シネパトスにて鑑賞。かなりネタバレを含むので観たい人はご注意あれ。


以前、この作品は実在したゲオルク・ファウスト博士を下敷きにしたものではないかと書いていました。この予想は完全に外れて、割と忠実にゲーテの『ファウスト』をなぞった作りになっていました。

ただし、読んだことのある人にはわかると思いますが、『ファウスト』に同じゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』のようなビルドゥングスロマンを期待していると火傷します。その上、ソクーロフによるヒットラー(『モレク神』)、レーニン(『牡牛座』)、昭和天皇(『太陽』)を描いた権力者4部作の総仕上げになる作品ということで、否が応でもまっすぐに古典作品を映画化したものにはなり得ません。

上の予告編では何やら名作文芸映画のようになってますが、原作を読むかわりに映画で済ませて読書感想文を書こうと思っていたり、美麗な映像と美形の俳優たちの繰り広げる華麗なドラマを期待していると、ありがたくも冒頭からドアップの○○○(ぼかし入ってますが)や内臓が流れ出るシーンを拝むことになります。

上では割と忠実になぞったと書きましたが、それはあくまでも粗筋レベルの話で、細かいところを見ていけば様々な異同があります。ソクーロフの問題意識に基づいたアレンジが加えられているわけですが、その差分から権力者シリーズへと繋がる点を探すのが、本作を読み解く上での鍵となるでしょう。

原作は、神とメフィストフェレスがファウストを堕落させられるかで賭けをするところから始まります。この点は完全に抜け落ちていて、原作の「良い人間は暗い衝動に駆られても、正しい道をそれなりに進むものだ(池内紀訳。以下同出)」という神のセリフはファウストの父親のものになっています。この父親はファウストがお金を借りにくれば断るし、ファウストが空腹なのに食べ物を与えることもしません。どうやら医者のようですが、荷馬車の檻のようなものに入れられた天然痘患者らしき人物を見ればうろたえるばかり。この父親は原作には登場しないのですが、彼が何であるかは明白でしょう。

弟子であるワーグナーとファウストとの会話では、はじめに言葉ありきというヨハネ福音書の有名な書き出しに関しても、ファウストはこれの意味が分からずに「言葉ではなく認識があったのだ」と語っています(セリフはうろ覚え)。この点では、原作では逆で認識とはワーグナーが言い出したものです。
ワーグナー:
人の世があってこそ心も精神も意味があるのです。そこから認識がはじまります。 
ファウスト:
どうあっても認識といいたいのかね。いちどはほんとうの名で呼んでみてはどうなんだ。どれだけの人が、ちゃんと認識したにせよ、それを胸の奥にしまっておけず(中略)そのあげく、はりつけにされたり火あぶりになったりしたものだ
映画のなかでファウストは認識認識としつこく何度も語っています。「はじめに言葉ありき」というくだりは、この世を形作っているものは全て神の言葉より発しているといった意味と理解していますが、ここでファウストは人間の認識がはじめにあると言っています。(この点は、あくまで日本語訳を比較しているので、ドイツ語でちゃんと比較するとピントを外しているかも知れません。強調されていたのでそう「認識」しています。)

ソクーロフの権力者シリーズでは、レーニン、ヒットラー、昭和天皇のそれぞれを超越的な支配者としてではなく、ひとりの人間として描いている点があります。昭和天皇の『太陽』が、実話も相まって一番分かりやすいですね。『ファウスト』では、はじめにあったのは人間の認識です。彼らのカリスマが成立するためには、周囲の人間が彼らを祭り上げることで多くの人に彼らがカリスマであると認識させる必要があります。例えば、スターリンの天然痘の跡は写真の上で綺麗に修正されていました。

『ファウスト』ではこれが裏返しになっていて、メフィストフェレスは、カリスマを生む従者のようにファウストに様々な覆いを被せようとするのですが、すれ違いを繰り返します。マルガレーテの兄の葬式に「ある紳士からの」お金を持っていって演出をしようとしても、ファウスト本人が葬式に出向いてマルガレーテにちょっかいを出したり、薬を呑まされた母親が死んで冷たくなっていく横でマルガレーテと寝たりする始末。倫理観とか道徳というものがないんでしょうかね。

その後、ファウストとメフィストフェレスとは第二部にあるように旅に出るのですが、ファウストに甲冑を着せて馬に乗せるという、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係を逆さまにしたような場面があります。その鎧も、ファウストに劇場のオーナーからの借り物(偽者)だと見抜かれて脱ぎ捨てられてしまいます。

撮影場所は恐らくアイスランドに移っていると思いますが、巨大な間欠泉を目の前にして、ファウストはこの泉を作ることが自分の目的であると悟ります。熱いものは上昇し、冷えたものは下降する原理を利用するのだと。これは原作で干拓に乗り出したのともまた逆に、終わりなき運動を続けることを宣言するようです。時が止まることはないということか、ファウストはメフィストフェレスと完全に決別します。悪魔との契約書まで破り捨てるとは大したものですが、やりたい放題もここまで来ると笑うしかありません。そして荒涼としたフィヨルドも物ともせずに突き進んでいきます。

これまでの3作で、ソクーロフは権力の喪失の瞬間とその力の源泉を描いてきました。しかし、ここでファウストはその力の源泉すらも脱ぎ捨てて自律運動を始めます。特に言及しませんでしたが、原作では純粋な精神として存在していたホムンクルスも、本作では瓶詰めが割れて、一言も発する前に死んでしまいます。ついでに言えば、ファウストは作品中、一度もものを食べていません。冒頭からずっと空腹です。

精神と道徳を欠き、餓えた、自律した力が無限に上昇と下降を繰りかしていく姿を、レーニンやそのお師匠辺りが見たら何に例えるでしょうか。恐らくそれが、伝統的な意味での権力を揺さぶっているものの正体なのでしょう。