2012年7月8日日曜日

技術的な先祖返りをどう見るか

色々あって、新しいカメラが手に入って撮りまくっています。

時代に逆行するように、被写界深度、絞り、シャッター速度などは全てアナログで操作するものです(一応デジタルですが)。おまけに背面の液晶を見ながら撮るわけでもないので、ファインダーを覗かないと話になりません。修行すればファインダーを覗かずに撮れるようになるでしょうが。

これまではリコーのGR DIGITAL IIを使っていたのですが、細かな調整をカメラ任せにしていた分、これまで使ってこなかった筋肉に刺激を入れるような面白さがあります。それと同時に、自分で引き出せる表現力の可能性にちょっとワクワクしています。

ここ1週間は新しい(しかし旧式の)カメラを使っていて、そうしたなかでいきなりGRを使うとファインダーを覗きに行って調子が狂ったり、液晶で情報を見ながら写真を撮るのがどうも気持ち悪く感じてしまい、自分の感覚が変わってきているなと、少し嬉しく思ったりもしていました。

さて、ある意味でこの移行は先祖返りに近いものだと思います。カメラという機械は、それ自体としては既に完成されていて変更の余地の少ない、枯れたものです。写真を撮るという機能は変わらないわけで、機械が代行できる部分を排除しても早く馴染めるというのは、そこが大きいのだと思います。

わたしは物持ちが良く、15年も同じシャーペンを使っていたりします。洋服のような消耗品以外はあまり買い換えません。なので、何か新しいものを買ったときには進歩具合にびっくりすることが多いです(特にデジタル系は)

驚きの多くは主に身体感覚のズレから来るもので、例えば携帯電話からスマホへの移行(ボタン→タッチパッド)などはその際たるものでした。個人的には、タッチパッドはハード的な対応をソフト面でやってしまえる点では優れていますが、ポケットに手を突っ込んだままメールを打ちたいユーザには不親切です。その機能性と、スマホというデバイスのあり方というのは実は噛みあっていないとも思います(ここらへんは書きだすと長くなりそうなのでまた別の機会に)。

最終的な落着点は経済性により決まるものと思います、その評価もまた、その外側にあるユーザのニーズ、言い換えれば特定の技術やシステムをどこまでの深度、射程で捉えるかという点で価値は変わります。カメラについて言えば、デジタルな制御から外れて発揮できる表現力を重視するのか、それとも写真は適度な画質で失敗なく撮れればいいやと思うかで、随分と評価は変わるということですね。