2012年4月11日水曜日

LEGO Serious Play™ その3 偶然と模倣のあいだ

シリアス・プレイって、何だか妙な表現ですよね。なんだ?シリアスなプレイって。ふざけてるのか。責任者を出せっ。

この場合のSeriousは、本気とか本格的といった意味合いで、真面目とか厳粛とかいう意味ではありません。Playの「遊び」は、機械の可動範囲などの遊びや、レクリエーションを意味するものではなく、子供のやる遊びです。ただし、「遊び」とは何か、ということになると、明確に応えるのが難しいものでもあります。反対側から眺めてみると、ブライアン・サットンスミスによれば、遊びの対義語とは、仕事や業務ではなく抑圧だそうです。

「遊び」と人間の関係といえば、ホイジンガのホモ・ルーデンス論やロジェ・カイヨワが思い浮かびます。カイヨワは『遊びと人間』において、遊びを下記の4つの要素に分類しました。

  • アゴン:競争
  • アレア:偶然
  • ミミクリ:模倣
  • イリンクス:眩暈(めまい)

競争と模倣は何かを構築するものであり、偶然と眩暈は状況を流動化させるものです。どこか左脳と右脳の違い、あるいは前回の記事のエンジニアリングとブリコラージュの違いを思い起こされます。ちなみに、分類しているといっても、特定の遊びがどれかに属しているということではなく、どの要素を持っているかを把握するための取っ掛かりとするものです。

レゴ・シリアス・プレイに関して言えば、偶然と模倣の間を行き来しています。意図せずに使ったブロックの色や形に意味が見出されたり、作ったモデルのなかに自分の考えを発見したり、他の人が作ったモデルとの関連性を発見する過程には偶然の力が発揮されています。また、モデルを作った後で何を意味しているかを説明するとき、モデルを個人の喜びなどの説明している内容に模倣させています(その相手は自分だったり、隣の人だったりします)。

前回紹介したブリコラージュの実例には、流動化した状況(洪水)のなかで既存のものの新たな使い方を発見したものが幾つもあります。その発見の過程は遊びと呼べるものもあったことと思います。

絶対、何度も浮かべたでしょうね
子供は遊びの天才であるとよく言われます。これは自分の手にしたモノが何であるかという認識が、大人ほど堅固でないことによるのでしょう。そして、遊びを通してあれやこれやのモノが特定の目的、手段のために作られた道具であり、自分が身を置いている環境がそうした道具たちの関係性の総体であることを「発見」していきます。

ここで子供の遊びと大人の遊びの差が何なのかと言えば、ゼロから環境を発見していくのか、それとも一度出来上がった認識をリセットしながら次のステップへと進んでいくかの違いなのだと思います。そのために、大人はより多くのエネルギーを消費(ガソリンとかスポーツドリンクとか)するのかも知れません。ともかく、発見のプロセスであることには変わりはありません。

ただし、それには今の状態(自覚しているものも、まだ形になっていないものも)を把握する必要があり、とりわけ言語化されていないものに形を与える必要があります。レゴのブロックはそのための仕掛けの一つということですね。

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