2012年3月4日日曜日

ドラゴン・タトゥーの女

『ドラゴン・タトゥーの女』を観た。デヴィッド・フィンチャーの新作。

色々なレビューで指摘されている通り、今回の作品のカット割はとても変わっている。始まってしばらくは見辛いなあと思っていて、映画館の前の方の席に座ったせいかと思っていたが、そうではなくて、通常の映画とはカット数とその変わり目が他の映画とは少し様子が違う。
例として、主人公の一人であるリスベットが調査対象の回線に何かを仕込んでいるシーンなどは、普通の映画ならば 1. 配電盤の蓋を開く → 2. 回線を見つける → 3. 回線を引っ張りだす → 4. 細工をする → 5. 細工を終える → 6. 配電盤の蓋を閉じる というぐらいのカット割になるだろうが、この映画では 1. 配電盤の前に立つ → 2. 細工をする で終わりである。おまけに、それぞれの切れ目もやや不十分なところで来てしまう。 

どんどん切り替わるので、カット数が多いように見えるが実は少ない。しかしギリギリで何をやっているかは分かるようになっている。鑑賞者の認知の限界に挑戦しているようですらある。このカット割はリスベットの行動シーンで顕著に見られるもので、彼女の行動の迷いのなさと正確さを演出する上で最適の手法だと思う。
もう一人の主人公であるミカエルの登場シーンでは、追い詰められるに従ってカットが長くなる。こちらでは爽快感とは正反対のにじり寄るような緊張感が出る。カット割に象徴されていryが、人物造形の上でもミカエルが情緒の人でリスベットが情報の人として鮮明に対比される。

リスベットの行動は目的に向かって最適化されており、見たまま洗練されたプログラムそのものである。わたしも単純作業を行う際には自分で自分に対してプログラムを書いて実行するような意識でいるが、これは恐らく多くの人がやっていることだろう。

この2人は同じ真実に到達するのだが、そのプロセスはどちらも地道な調査のようでいて、ミカエルがある共通点に気付くところから、リスベットが大量の情報の蓄積と整理と、やはり行動上の相違が表れている。

この2人は、目標のために行動を共にするものの、それが達成された後ではすれ違ってしまう。この点では前作の『ソーシャルネットワーク』の延長線上にあるもので、モチーフの上では特に飛躍しているわけではないが、手法と表現の深化という点では何歩も進んでいると思う。

あれこれややこしいことばかり書いてしまったが、内容的にもスリリングで面白いものの、割と過激なシーンが多いのでその点にはご注意を。なお、トレント・レズナーによるサウンドトラックは相変わらず素晴らしい。登場人物がNINのTシャツを着ていて、またそれがいかにもな人物であるところなどは笑える。


移民の歌


※リスベットと男性性との対決というのは重要な要素だとは思うものの、これが原作から引き継がれているものなのかは、原作を読んでいないので分からない。

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