2012年10月4日木曜日

ワークショップの有効性をめぐるあれこれ

9/29(土)に開催されたローカリゼーションマップ勉強会、「自由に考えるワークショップ』を考えてみよう」に参加してきました。ワークショップとは何かという定義から始まり、その効果や意義について参加者同士での討議があり充実した内容でした

私はLSPのファシリテーターとして自己紹介しましたが、参加にあたっての問題意識はファシリテーターというよりは参加者寄りで、ワークショップは特定の経験を濃縮した形で関係者で共有できるものの、そこで生まれた内容の実行段階に移ると効果が持続しなくなる点が気になっていました。

楽しかったけど、結局アレは何だったんだ?」というやつです。

実利性という点では、広告代理店で行なっているように、ワークショップを通してコンセプトを参加者から引き出し、それを実際に使うメッセージや制作物に反映させていく方法は理にかなっていると思います。言い換えると、ワークショップで生み出された結果を制約条件として用いる方法です。

コンセプト(Concept)という言葉は語源的には「妊娠(Conceive)」の意が含まれるので、そのアナロジーを用いるなら、赤ちゃんが生まれたならきちんと育てていく必要があります。それも、勝手に育つということはないわけで、適切な制約(規範など)を与える必要がある。

最初から間違ったものが生まれていた、ということもあるかも知れません。ただし、遭難した山岳隊が登っていたのとは別の山の地図をそうと知らずに使いながらも生還したという話もあるように、正解がない状況で進んでいくには、「正しさ」や「適切さ」よりも全員が同じ方向に進むことが重要な場合もあります。その進む方向を決めるに当たって、カリスマが決めるのか、参加者のなかから発見していくかが問われており、後者の手段のひとつとしてワークショップがあるのだと思います。

逆にいうと、「正しさ」が重視されている環境ではワークショップの効果が限定的になってしまう可能性がある。そうした場合にしばしば問われるのは、「ワークショップの効果を事前に証明する」ことです。

この問いはワークショップに限らず、結果がオープンエンドなもの全般に適用することができて、
 - 良いデザインを作って製品の売上が伸びるか?
 - 伸びたとして、そのうちのデザインの貢献度だけを取り出すことはできるか?
 - できたとして、その説明に納得感はあるか?
といった形に言い換えられます。「デザイン」は情報システムなどに入れ替え可能です。答えは言うまでもないですね。

「良いデザイン」に対しては世間一般でもその価値は認知されてきていると思いますが、それを生み出す「クリエイター」という人種に対してある種のカリスマ性が与えられている影響もあるでしょう。具体的にいえばジョブスとか。

この点で、ワークショップに関していえば、カリスマ・ファシリテーターという存在が許されないのが弱点ですね。それが成立するようなら、そいつは本質的にファシリテーターではない。

ただし、もしかすると、ワークショップという形式を広めていく上では確信犯的にそうした人物を作り上げることも必要かも知れません。わたしもハイパー・ワークショップ・ファシリテーター(HWF)とか名乗ってみようかな?

大抵の人間は(自分も含めて)、誰かに「これが正しい」と言い切ってもらったり、自分を省みる暇がないほどサバイバルな状況に身を置かないと、自身の行動に確信を持てなくなります。

その意味では、ワークショップが目指すべきゴールの一つは、「赤信号みんなで渡れば怖くない」精神かも知れません。

それは冗談として、ワークショップのような凝縮された空間を作りつつ(そこまで極端でなくても)、決めたことを実行していくためにモニターしながらプロセスにも関与するような人は、今後は色々な組織のなかでは必要とされてくるのだろうなあと思います。とりわけ企業におけるマネジメント(トップ、ミドルともに)の在り方として。

これを実行、再現していくことに関しては、過去の経験に照らし合わせて、ある程度確信を持ってできると思っていることでもあります。当面のわたし自身のテーマとしては、それを実行していく場を作るということになります。

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