2012年9月27日木曜日

アッバス・キアロスタミ『ライク・サム・ワン・イン・ラブ』


キアロスタミ最新作、『ライク・サムワン・イン・ラブ』を観た。

以下、ネタバレ注意。

前情報として、凄いところで映画が終わるというのは仕入れていたが、本当に凄いところで終わる。しかしエンドロールが流れたとしたも、物語が終わるわけではない。むしろそこから続いていくこともある。これはそうした種類の映画である。

彼の作品に特徴的なその他の要素、車での移動、街のノイズ、クラクション、電話、役者達の自然な演技などは本作品でも健在である。

ただ、それよりも目立つのは、登場人物達が執拗に「似ている」ことについて語ることだ。映画のからして、「恋に落ちた人のように」だし、タカシの部屋にやってきた明子はそこにある写真や絵に自分が似ていることを語り、明子の祖母はピンクチラシに明子に似た人物がいることを語り、同様のチラシを部下に見せられたノリアキはそいつを殴りつける。

「似ている」ことを認めないのはノリアキだけだ。

もう一つは、今回は内と外の表現が非常に多い。タカシが一人で帰ってきたときの隣人の視点と、明子と一緒に帰ってきたときの隣人のおばさんの視点。その隣人のおばさんが弟の世話をする際の、二重の壁。タカシが明子を助けにいったときなどは、クラクションを鳴らしても明子は気づかない。彼は車から出ていくしかない。この境界を乗り越えられるのは声だけで、その媒介として電話やインターホンがある。それを切ることは、そのまま関係の切断を意味する。

その壁はぶち破られる。

この内外の表現は、そのままカメラの映し出す範囲として、登場人物の人物像や関係にも投影されている。様々な要素が見えないままになっている。

祖母はなんで連絡もついていないのに東京まで出てきたのか?明子の携帯電話の番号を教えた人は、何でそれを言って欲しくなかったのか?タカシはどういう経緯でサービスを依頼したのか?舞台が横浜なのに六本木のABCが本屋である理由は?

見返しながら、こういう部分を色々想像して補完してみるのは面白そうだ。もしかすると、最初から穴は開いていたのではないか、というのがわたしの想像だ。

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