2012年12月9日日曜日

本棚の崩落

久しぶりの地震があって、翌日になって本棚が崩落した。

使っている本棚は、引越しの際にネットで適当に注文した安物で、見た目はいいが微妙なバランスを保っていないと崩れてしまう。おかげで、だいたい年に一度は崩落事故が起きている。

またかと思って、まずは本を救出して床に広げる。大した冊数でもないのに、物理的な紙の量に少し驚く。全て読んでしまった後だし、始末してしまった方が良いような気もしてくる。

Kindleを使っていれば、全てがあの薄いデバイスのなかに収納される。収納はそれで解決する。一方で別の解決しない問題も出てくる。

電子図書において致命的なのは紙というメディアに対するフェティシズムが満たせないことではなく、本棚という概念が存在しないことであり、各人が本棚を通じて構築している理解が俯瞰できない点にある。

アトムとビットとの対比を考える。ビットの世界においてある情報との遭遇は必然的なものになりつつあり、偶然的な要素は減っている。

本棚が崩落して、結果として本の配列が変わり、どこかで私の理解も更新される。電書のシステムは本棚の見た目はコピーしていても、こうした振る舞いは実装できていない。これが実装できたとき初めて、電書が書物を上書きする。

2012年12月4日火曜日

Electraglide 2012

エレグラに行ってきたんですよ、ということで。

幕張の遠さを舐めていたのと、入場に時間がかかったために高木正勝の最後の方から参加。その後、Kode9Amon Tobin、電気グルーヴ、Squarepusher、一休みを入れてOrbitalAndrew Weatherallという流れ。

隙間でDJ KrushDJ Kentaroも観られて、この面子で8800円って相当安いなあと思う。本当はFour Tetも観たかったんだけど、今回はSquarepusherにした

Amon TobinISAMは美しかった。ただ、事前の期待を裏切るような何かはあまりなく、またセットが意外と小さいこともあってあまり乗り切れなかった。


個人的には、Squarepusherが一番良かったと思う。この人がライブでやってることは、表面的な音が変わっていても基本的には同じで、原曲を留めない改変やノイズの追加が楽しい。CDで聴いてたら苦痛になるんだけどライブではいけてしまう。

後半になってベースを弾き始めてからが本番。どんなエフェクター使ってるのか知らないけど、とんでもない音を繰り出してきた。最後はお約束の"Journy to Reedham"で締めるも、イントロのピコピコ音とリズムぐらいしか把握できなかった。



・・・

あちこちで言われているように、ゴミは散乱してるし禁煙のフロアで喫煙してる奴はいたし(煙がどうこうというより、危険)、フジロックと比べるとだいぶお行儀が悪い。クラブなんてそんなもんだと言ってしまえばそうなんだけど、風営法絡みでの署名運動をしている横でそうした光景が広がっているというのは、色々見直したほうが良いんじゃないかと思ったり。

自分はその手の音楽はよく聞きつつも、夜寝ないとダメなのであまりクラブには通っていなかったので、昼間にやれば解決なんじゃないかと思うんだけど、そういうわけにはいかんのでしょうか。

2012年11月5日月曜日

【読書】ここは退屈迎えに来て/山内マリコ


『ここは退屈迎えに来て』を読んだ。

三十路帰郷モノとでも呼べばいいのか、都会に出ていた女性が何かのきっかけで田舎に帰ってからの生活を描いたマンガや小説はそれなりに需要があるようで、これもその一種。

ネットで話題になっていたのは、三浦展のファスト風土論に引きつけてある部分で(大した分量ではない)、既存のフォーマットの上に味付けとして使われているのだと思っていたら、巻末の参考文献に『ファスト風土化する日本』が載っていた。

これまで自分が読んできたなかで、こうした形で読者の読みに方向性を与えている小説に出会ったことが無かったので、けっこうな驚きだった。

登場するアイテムがいちいち的確(というか、同世代の匂いがすると思っていたら同い年だった)なことや、「地方都市のタラ・リピンスキー」でネットの小咄にあるようなどんでん返しを持ってくる辺りで、テクニック、マーケティングで書かれている部分が非常に大きい作品なのではないかと思った。

そして、そのために作品自体が閉塞してしまっている感がある。

読み進めるに従って過去に遡っていく形になっているが、そのことが登場人物の未来を形作っていく何かを明らかにするわけでもなく、現在の姿に新たな彩りを加えるわけでもない。どん詰まりの現在に行き着いて、そこで終わりである。

プロダクトとしての完成度は高いが、そこから先が無い。

それが自分の世代だと言ってしまえば、そうなのかも知れないが。幻冬舎の本だし、ミニマルな点に共感しながら読んでいるのがちょうど良いのかも知れない。

2012年10月10日水曜日

KIDULTの凡庸さ


VimeoにKIDULTの映像が上がっていたのを発券

彼のグラフィティはtumblrで何度か流れてきていた。下の写真のようなもので、わたしは新手の店頭ディスプレイかと思っていた。けっこう綺麗だし。これを作ったときの様子は上のビデオにもあるのだが、どうやらマジでやっているらしい。とっくに「回収済」だと思っていたのでちょっと意外。



ビデオのなかで彼が語っていることは、はっきり言って中身がない。そして凡庸。そもそも、彼のグラフィティがあまり有効でないから本人が前面に出ざるを得なくなっていて、誰か「回収」してくれと訴え出ているのかも知れないようにも思える。

2012年10月4日木曜日

ワークショップの有効性をめぐるあれこれ

9/29(土)に開催されたローカリゼーションマップ勉強会、「自由に考えるワークショップ』を考えてみよう」に参加してきました。ワークショップとは何かという定義から始まり、その効果や意義について参加者同士での討議があり充実した内容でした

私はLSPのファシリテーターとして自己紹介しましたが、参加にあたっての問題意識はファシリテーターというよりは参加者寄りで、ワークショップは特定の経験を濃縮した形で関係者で共有できるものの、そこで生まれた内容の実行段階に移ると効果が持続しなくなる点が気になっていました。

楽しかったけど、結局アレは何だったんだ?」というやつです。

実利性という点では、広告代理店で行なっているように、ワークショップを通してコンセプトを参加者から引き出し、それを実際に使うメッセージや制作物に反映させていく方法は理にかなっていると思います。言い換えると、ワークショップで生み出された結果を制約条件として用いる方法です。

コンセプト(Concept)という言葉は語源的には「妊娠(Conceive)」の意が含まれるので、そのアナロジーを用いるなら、赤ちゃんが生まれたならきちんと育てていく必要があります。それも、勝手に育つということはないわけで、適切な制約(規範など)を与える必要がある。

最初から間違ったものが生まれていた、ということもあるかも知れません。ただし、遭難した山岳隊が登っていたのとは別の山の地図をそうと知らずに使いながらも生還したという話もあるように、正解がない状況で進んでいくには、「正しさ」や「適切さ」よりも全員が同じ方向に進むことが重要な場合もあります。その進む方向を決めるに当たって、カリスマが決めるのか、参加者のなかから発見していくかが問われており、後者の手段のひとつとしてワークショップがあるのだと思います。

逆にいうと、「正しさ」が重視されている環境ではワークショップの効果が限定的になってしまう可能性がある。そうした場合にしばしば問われるのは、「ワークショップの効果を事前に証明する」ことです。

この問いはワークショップに限らず、結果がオープンエンドなもの全般に適用することができて、
 - 良いデザインを作って製品の売上が伸びるか?
 - 伸びたとして、そのうちのデザインの貢献度だけを取り出すことはできるか?
 - できたとして、その説明に納得感はあるか?
といった形に言い換えられます。「デザイン」は情報システムなどに入れ替え可能です。答えは言うまでもないですね。

「良いデザイン」に対しては世間一般でもその価値は認知されてきていると思いますが、それを生み出す「クリエイター」という人種に対してある種のカリスマ性が与えられている影響もあるでしょう。具体的にいえばジョブスとか。

この点で、ワークショップに関していえば、カリスマ・ファシリテーターという存在が許されないのが弱点ですね。それが成立するようなら、そいつは本質的にファシリテーターではない。

ただし、もしかすると、ワークショップという形式を広めていく上では確信犯的にそうした人物を作り上げることも必要かも知れません。わたしもハイパー・ワークショップ・ファシリテーター(HWF)とか名乗ってみようかな?

大抵の人間は(自分も含めて)、誰かに「これが正しい」と言い切ってもらったり、自分を省みる暇がないほどサバイバルな状況に身を置かないと、自身の行動に確信を持てなくなります。

その意味では、ワークショップが目指すべきゴールの一つは、「赤信号みんなで渡れば怖くない」精神かも知れません。

それは冗談として、ワークショップのような凝縮された空間を作りつつ(そこまで極端でなくても)、決めたことを実行していくためにモニターしながらプロセスにも関与するような人は、今後は色々な組織のなかでは必要とされてくるのだろうなあと思います。とりわけ企業におけるマネジメント(トップ、ミドルともに)の在り方として。

これを実行、再現していくことに関しては、過去の経験に照らし合わせて、ある程度確信を持ってできると思っていることでもあります。当面のわたし自身のテーマとしては、それを実行していく場を作るということになります。

2012年10月2日火曜日

郊外としての湘南と駅ナカ

『移動者マーケティング』という本を読んだ。JR東日本企画による本で、「乗客」を「移動者(移動する潜在的コンシューマー)」と定義しなおすことで生まれる新たな需要の創造についてまとめた本である。

品川のecuteのように駅ナカの開発でJRが成功を収めていることは記憶に新しい。最近では辻堂に駅直結の大きなモール(テラスモール湘南)ができたり、札幌でも駅(と地下道)を中心に再開発が進み地域のコアになっている様子が見て取れる。最大の例は、大阪ステーションシティが開業8ヶ月で来場者が1億人を突破した例だろう(大阪万博は6,421万人)。

個人的には、こうした動きについては色々と思うところが多い。なかでも辻堂に駅直結のモールができたことは割と衝撃的な出来事だった。

その理由を説明するには、まず辻堂という場所について書く必要があるだろう。辻堂は神奈川県の藤沢市にある。いわゆる湘南エリアに含まれるものの、どちらかといえば地味なベッドタウンである。最近になってマンションが大量に建ったりして人口が増えている。詳細はこちらでも。

ブランドとしての湘南にはお洒落なイメージがあるが、観光地、ベッドタウン、三浦展がファスト風土と呼んだロードサイド、農地、工場、未開発のなんだかよく分からない場所。これらがだだっ広い土地に散らばっているのが実像だ。一言で表すならスプロール。いわゆる「湘南」は、そのなかでも寺社や自然が集まった地域が特区のように存在していると言った方が正確だろう。

きわめて大ざっぱに言って、神奈川県は相模川の辺りでモータリゼーションを中心とした文化圏と、公共交通機関を中心とした文化圏とに分かれている(もちろんグラデーションはある)。テラスモール湘南ができた辻堂は、地理的にはその川の「手前側」に当たる。

JRによる駅を中心とした街の再開発がモータリゼーションからの脱却の一貫として行われているものとして考えると、辻堂はその最前線に当たる。入っているテナントもかなり気合いが入っていて(ロンハーマンが横浜よりも先にできた)、モールとしては勝負を仕掛けているのだろうと思う。そういう意味で、辻堂の先(東京から見て)に同様の駅ナカモールができるときこそ、大きな変化が生まれる可能性がある。

ただ、この動きも単にモノとカネの動きを活発にするだけでは、また別の郊外を生むだけで終わる可能性がある。その場合には、経済状況もあってより一層悪い形で実現するだろう。

そこで生活する人間を含めて、「都市」というものについてどのようなグランドデザインを描けるかということが問われているのだと思う。この辺りのことについてはまた書きたいと思うが、いち消費者としては、そこで自分がお金を落としたり、落とさなかったりする選択が意味を持つような形になって欲しいと思っている。

2012年9月27日木曜日

アッバス・キアロスタミ『ライク・サム・ワン・イン・ラブ』


キアロスタミ最新作、『ライク・サムワン・イン・ラブ』を観た。

以下、ネタバレ注意。

前情報として、凄いところで映画が終わるというのは仕入れていたが、本当に凄いところで終わる。しかしエンドロールが流れたとしたも、物語が終わるわけではない。むしろそこから続いていくこともある。これはそうした種類の映画である。

彼の作品に特徴的なその他の要素、車での移動、街のノイズ、クラクション、電話、役者達の自然な演技などは本作品でも健在である。

ただ、それよりも目立つのは、登場人物達が執拗に「似ている」ことについて語ることだ。映画のからして、「恋に落ちた人のように」だし、タカシの部屋にやってきた明子はそこにある写真や絵に自分が似ていることを語り、明子の祖母はピンクチラシに明子に似た人物がいることを語り、同様のチラシを部下に見せられたノリアキはそいつを殴りつける。

「似ている」ことを認めないのはノリアキだけだ。

もう一つは、今回は内と外の表現が非常に多い。タカシが一人で帰ってきたときの隣人の視点と、明子と一緒に帰ってきたときの隣人のおばさんの視点。その隣人のおばさんが弟の世話をする際の、二重の壁。タカシが明子を助けにいったときなどは、クラクションを鳴らしても明子は気づかない。彼は車から出ていくしかない。この境界を乗り越えられるのは声だけで、その媒介として電話やインターホンがある。それを切ることは、そのまま関係の切断を意味する。

その壁はぶち破られる。

この内外の表現は、そのままカメラの映し出す範囲として、登場人物の人物像や関係にも投影されている。様々な要素が見えないままになっている。

祖母はなんで連絡もついていないのに東京まで出てきたのか?明子の携帯電話の番号を教えた人は、何でそれを言って欲しくなかったのか?タカシはどういう経緯でサービスを依頼したのか?舞台が横浜なのに六本木のABCが本屋である理由は?

見返しながら、こういう部分を色々想像して補完してみるのは面白そうだ。もしかすると、最初から穴は開いていたのではないか、というのがわたしの想像だ。