色々あって、新しいカメラが手に入って撮りまくっています。
時代に逆行するように、被写界深度、絞り、シャッター速度などは全てアナログで操作するものです(一応デジタルですが)。おまけに背面の液晶を見ながら撮るわけでもないので、ファインダーを覗かないと話になりません。修行すればファインダーを覗かずに撮れるようになるでしょうが。
これまではリコーのGR DIGITAL IIを使っていたのですが、細かな調整をカメラ任せにしていた分、これまで使ってこなかった筋肉に刺激を入れるような面白さがあります。それと同時に、自分で引き出せる表現力の可能性にちょっとワクワクしています。
ここ1週間は新しい(しかし旧式の)カメラを使っていて、そうしたなかでいきなりGRを使うとファインダーを覗きに行って調子が狂ったり、液晶で情報を見ながら写真を撮るのがどうも気持ち悪く感じてしまい、自分の感覚が変わってきているなと、少し嬉しく思ったりもしていました。
さて、ある意味でこの移行は先祖返りに近いものだと思います。カメラという機械は、それ自体としては既に完成されていて変更の余地の少ない、枯れたものです。写真を撮るという機能は変わらないわけで、機械が代行できる部分を排除しても早く馴染めるというのは、そこが大きいのだと思います。
わたしは物持ちが良く、15年も同じシャーペンを使っていたりします。洋服のような消耗品以外はあまり買い換えません。なので、何か新しいものを買ったときには進歩具合にびっくりすることが多いです(特にデジタル系は)。
驚きの多くは主に身体感覚のズレから来るもので、例えば携帯電話からスマホへの移行(ボタン→タッチパッド)などはその際たるものでした。個人的には、タッチパッドはハード的な対応をソフト面でやってしまえる点では優れていますが、ポケットに手を突っ込んだままメールを打ちたいユーザには不親切です。その機能性と、スマホというデバイスのあり方というのは実は噛みあっていないとも思います(ここらへんは書きだすと長くなりそうなのでまた別の機会に)。
最終的な落着点は経済性により決まるものと思います、その評価もまた、その外側にあるユーザのニーズ、言い換えれば特定の技術やシステムをどこまでの深度、射程で捉えるかという点で価値は変わります。カメラについて言えば、デジタルな制御から外れて発揮できる表現力を重視するのか、それとも写真は適度な画質で失敗なく撮れればいいやと思うかで、随分と評価は変わるということですね。
2012年7月8日日曜日
2012年6月28日木曜日
ダウンロード違法化についてのあれこれ
youtubeが定着した頃(とうかモンティ・パイソンのアレ(リンク)?)から、アメリカではライブで稼ぐモデルへの移行が進んでいて、そうした状況がありながら、業界を上げてやることがテクノロジーの進歩や時代の変化への対応ではなく、失われつつある収益構造の保全であるという辺りで、完全に日本の「音楽業界」は終わってるなと。正直なところ、それ以上の感想はない。そもそも、既に次のフェーズへ移ってしまっているので、今更こんなことをしても何にもならない。
思い返せば、Massive Attackの"100 Windows"をCCCDで買ったときに、何かが失われたような気がして殆ど聴かなかった。作品の出来栄えとは別の次元で、完全に熱を削がれた。CCCDに関しては音質やプレイヤーを壊す可能性が取りざたされていたけれど、一番大きく毀損したのはリスナーへの信頼なのだと思う。
信頼というのは、交差点を渡る際を例に取れば、信号機(社会インフラ)が正常に機能しているという期待や、信号が赤になればドライバー(他プレイヤー)がちゃんと止まってくれるという期待など、幾つかのレイヤーに跨っているものであり、それぞれが正しく機能する必要がある。
アナロジーで語ると様々な語弊が出るのだが、お伊勢さんに参拝するために道を歩いているのがリスナーであり、その途中にあるお茶屋がアーティストであり、今回のDL違法化を推し進めている連中は公共の道のど真ん中に勝手に関所を構えてそこを通る人間から通行料を取っている。関所を構えている連中は、道路そのものに対して何ら貢献をしているわけではない。
2012年6月4日月曜日
ソクーロフによる『ファウスト』観てきました
銀座シネパトスにて鑑賞。かなりネタバレを含むので観たい人はご注意あれ。
以前、この作品は実在したゲオルク・ファウスト博士を下敷きにしたものではないかと書いていました。この予想は完全に外れて、割と忠実にゲーテの『ファウスト』をなぞった作りになっていました。
ただし、読んだことのある人にはわかると思いますが、『ファウスト』に同じゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』のようなビルドゥングスロマンを期待していると火傷します。その上、ソクーロフによるヒットラー(『モレク神』)、レーニン(『牡牛座』)、昭和天皇(『太陽』)を描いた権力者4部作の総仕上げになる作品ということで、否が応でもまっすぐに古典作品を映画化したものにはなり得ません。
上の予告編では何やら名作文芸映画のようになってますが、原作を読むかわりに映画で済ませて読書感想文を書こうと思っていたり、美麗な映像と美形の俳優たちの繰り広げる華麗なドラマを期待していると、ありがたくも冒頭からドアップの○○○(ぼかし入ってますが)や内臓が流れ出るシーンを拝むことになります。
上では割と忠実になぞったと書きましたが、それはあくまでも粗筋レベルの話で、細かいところを見ていけば様々な異同があります。ソクーロフの問題意識に基づいたアレンジが加えられているわけですが、その差分から権力者シリーズへと繋がる点を探すのが、本作を読み解く上での鍵となるでしょう。
原作は、神とメフィストフェレスがファウストを堕落させられるかで賭けをするところから始まります。この点は完全に抜け落ちていて、原作の「良い人間は暗い衝動に駆られても、正しい道をそれなりに進むものだ(池内紀訳。以下同出)」という神のセリフはファウストの父親のものになっています。この父親はファウストがお金を借りにくれば断るし、ファウストが空腹なのに食べ物を与えることもしません。どうやら医者のようですが、荷馬車の檻のようなものに入れられた天然痘患者らしき人物を見ればうろたえるばかり。この父親は原作には登場しないのですが、彼が何であるかは明白でしょう。
弟子であるワーグナーとファウストとの会話では、はじめに言葉ありきというヨハネ福音書の有名な書き出しに関しても、ファウストはこれの意味が分からずに「言葉ではなく認識があったのだ」と語っています(セリフはうろ覚え)。この点では、原作では逆で認識とはワーグナーが言い出したものです。
ワーグナー:
人の世があってこそ心も精神も意味があるのです。そこから認識がはじまります。
ファウスト:映画のなかでファウストは認識認識としつこく何度も語っています。「はじめに言葉ありき」というくだりは、この世を形作っているものは全て神の言葉より発しているといった意味と理解していますが、ここでファウストは人間の認識がはじめにあると言っています。(この点は、あくまで日本語訳を比較しているので、ドイツ語でちゃんと比較するとピントを外しているかも知れません。強調されていたのでそう「認識」しています。)
どうあっても認識といいたいのかね。いちどはほんとうの名で呼んでみてはどうなんだ。どれだけの人が、ちゃんと認識したにせよ、それを胸の奥にしまっておけず(中略)そのあげく、はりつけにされたり火あぶりになったりしたものだ
ソクーロフの権力者シリーズでは、レーニン、ヒットラー、昭和天皇のそれぞれを超越的な支配者としてではなく、ひとりの人間として描いている点があります。昭和天皇の『太陽』が、実話も相まって一番分かりやすいですね。『ファウスト』では、はじめにあったのは人間の認識です。彼らのカリスマが成立するためには、周囲の人間が彼らを祭り上げることで多くの人に彼らがカリスマであると認識させる必要があります。例えば、スターリンの天然痘の跡は写真の上で綺麗に修正されていました。
『ファウスト』ではこれが裏返しになっていて、メフィストフェレスは、カリスマを生む従者のようにファウストに様々な覆いを被せようとするのですが、すれ違いを繰り返します。マルガレーテの兄の葬式に「ある紳士からの」お金を持っていって演出をしようとしても、ファウスト本人が葬式に出向いてマルガレーテにちょっかいを出したり、薬を呑まされた母親が死んで冷たくなっていく横でマルガレーテと寝たりする始末。倫理観とか道徳というものがないんでしょうかね。
その後、ファウストとメフィストフェレスとは第二部にあるように旅に出るのですが、ファウストに甲冑を着せて馬に乗せるという、ドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係を逆さまにしたような場面があります。その鎧も、ファウストに劇場のオーナーからの借り物(偽者)だと見抜かれて脱ぎ捨てられてしまいます。
撮影場所は恐らくアイスランドに移っていると思いますが、巨大な間欠泉を目の前にして、ファウストはこの泉を作ることが自分の目的であると悟ります。熱いものは上昇し、冷えたものは下降する原理を利用するのだと。これは原作で干拓に乗り出したのともまた逆に、終わりなき運動を続けることを宣言するようです。時が止まることはないということか、ファウストはメフィストフェレスと完全に決別します。悪魔との契約書まで破り捨てるとは大したものですが、やりたい放題もここまで来ると笑うしかありません。そして荒涼としたフィヨルドも物ともせずに突き進んでいきます。
これまでの3作で、ソクーロフは権力の喪失の瞬間とその力の源泉を描いてきました。しかし、ここでファウストはその力の源泉すらも脱ぎ捨てて自律運動を始めます。特に言及しませんでしたが、原作では純粋な精神として存在していたホムンクルスも、本作では瓶詰めが割れて、一言も発する前に死んでしまいます。ついでに言えば、ファウストは作品中、一度もものを食べていません。冒頭からずっと空腹です。
精神と道徳を欠き、餓えた、自律した力が無限に上昇と下降を繰りかしていく姿を、レーニンやそのお師匠辺りが見たら何に例えるでしょうか。恐らくそれが、伝統的な意味での権力を揺さぶっているものの正体なのでしょう。
2012年5月25日金曜日
Noel Gallagher@武道館
最後に生でオアシスを観たのが2000年頃の横浜アリーナ。そのときのことで憶えているのは、前座で出ていたノーザン・ブライトが野次られまくっていたことと(かなり可哀想だった)、Gas Panic!が素晴らしかったこと。
そういうわけで、12年ぶり?の生ノエル。セットリストは下記だそうな(どっかでSad Songが挟まってた気がするけど)。オアシス時代の曲は通好み的な、どっちかといえば地味な曲が中心。このなかでは、Supersonicのアレンジがとても良かった。アラン・マッギーがどうのと喋っていたけど、どうやら会場にいたらしい。といっても顔知らないんだけど。
最後に、終幕する気ゼロのアンコールでのWhateverからの流れで完全にやられた。反則でしょうこの並びは。完全に掌の上で弄ばれるファンの図。
そういうわけで、12年ぶり?の生ノエル。セットリストは下記だそうな(どっかでSad Songが挟まってた気がするけど)。オアシス時代の曲は通好み的な、どっちかといえば地味な曲が中心。このなかでは、Supersonicのアレンジがとても良かった。アラン・マッギーがどうのと喋っていたけど、どうやら会場にいたらしい。といっても顔知らないんだけど。
最後に、終幕する気ゼロのアンコールでのWhateverからの流れで完全にやられた。反則でしょうこの並びは。完全に掌の上で弄ばれるファンの図。
02. Mucky Fingers (Oasis cover)
03. Everybody's on the Run
04. Dream On
05. If I Had a Gun...
06. The Good Rebel
07. The Death of You and Me
08. Freaky Teeth
09. Supersonic (Oasis cover) (Acoustic)
10. (I Wanna Live in a Dream in My) Record Machine
11. AKA... What a Life!
12. Talk Tonight (Oasis cover)
13. Soldier Boys and Jesus Freaks
14. AKA... Broken Arrow
15. Half The World Away (Oasis cover)
16. (Stranded On) The Wrong Beach
---encore---
17. Let the Lord Shine a Light on Me
18. Whatever (Oasis cover)
19. Little By Little (Oasis cover)
20. Don't Look Back In Anger (Oasis cover)
あちこちでのライブがyoutubeに上がっていて、これなんかいいなあと思う。12m30sからのSupersonicがいい。
2012年5月15日火曜日
Moses Core
ちょっと気になるニュースが。
EUが資金援助、自作の機械翻訳システムが作れるオープンソースプロジェクト「MosesCore」が本格スタート
MosesそのものはオープンソースのSMTエンジンとしてよく知られているので、特にどうということはないのですが、この記事だけだといまいち何なのか分からないですね。Moses Coreのウェブサイト(リンク)を見ると、下部にこうした記述があります。
プログラムの詳細はEUの日本語サイト(リンク)にも掲載されています。Moses Coreについて特に言及はありませんが、PDFを読んでいくと、ICTの推進という辺りで微妙に気になる表現が。
ちなみに、"European Commission Grant Number 288487"でググると北京で開催されたTAUSの記事も出てきます(リンク)。ウェブサイトよりもこっちの方が分かりやすいですね。Mosesに関しては、ダウンロードして遊んでみて放置していたのでGUIで使えるようになると助かるのですが・・・
EUが資金援助、自作の機械翻訳システムが作れるオープンソースプロジェクト「MosesCore」が本格スタート
MosesそのものはオープンソースのSMTエンジンとしてよく知られているので、特にどうということはないのですが、この記事だけだといまいち何なのか分からないですね。Moses Coreのウェブサイト(リンク)を見ると、下部にこうした記述があります。
"MosesCore is supported by the European Commission Grant Number 288487 under the 7th Framework Programme"まず、このMoses Coreを支援している"7th Framework Programme"は、リスボン戦略(リンク1、2)という知識経済の振興を目的としたEUの経済戦略に基づいて進められているようです。これ自体、読んでいてなかなか面白いですね。
プログラムの詳細はEUの日本語サイト(リンク)にも掲載されています。Moses Coreについて特に言及はありませんが、PDFを読んでいくと、ICTの推進という辺りで微妙に気になる表現が。
-ソフトウェア、グリッド、セキュリティ、信頼性-ダイナミックで順応性・信頼性も高 いソフトウェアと各種サービス、また、新種の処理アーキテクチャ(ユーティリティとして提供されるものも含む)この手の官僚ドキュメントの読み方に通暁しているわけでもないのですが、色んな情報を仕入れた上で読むと、あー、まあ、そういうことなのかなあ、という部分はあります。
ちなみに、"European Commission Grant Number 288487"でググると北京で開催されたTAUSの記事も出てきます(リンク)。ウェブサイトよりもこっちの方が分かりやすいですね。Mosesに関しては、ダウンロードして遊んでみて放置していたのでGUIで使えるようになると助かるのですが・・・
2012年5月14日月曜日
巨人の肩の上から - TAUSと日本
過去に自分の書いた色々な文章を整理していたところ、TAUSに初めて参加したときのものが出てきました。我ながら多少気の利いたことを書いていたので、再構成してアップします。
先日のTAUS Tokyoでも壮大なヴィジョンが提示されていましたが、2年前のもっとシンプルなものでした。動画がyoutubeに上がっています。
先日のTAUS Tokyoでも壮大なヴィジョンが提示されていましたが、2年前のもっとシンプルなものでした。動画がyoutubeに上がっています。
音声抜きで絵を見ているだけでも何となく理解できると思いますが、ここでは、翻訳という行為を、異言語間での情報の集積と伝播の過程のなかで継続して用いられてきた技術として捉えています。
その上で、雲(クラウド)に届こうというバベルの塔や、世界最古の対訳コーパス(翻訳メモリ)としてのロゼッタストーンなど、よく知られたものを現在の文脈で解釈しています。特に、翻訳メモリなどは馴染みのある人にとっても最近登場してきたものとして受け取られがちですが、その発想は文字が発明されたときからあったわけですね。
その上で、雲(クラウド)に届こうというバベルの塔や、世界最古の対訳コーパス(翻訳メモリ)としてのロゼッタストーンなど、よく知られたものを現在の文脈で解釈しています。特に、翻訳メモリなどは馴染みのある人にとっても最近登場してきたものとして受け取られがちですが、その発想は文字が発明されたときからあったわけですね。
そういえば、翻訳メモリを開発したのは、ロゼッタストーンを解読したシャンポリオンの子孫だという噂を聞いたことがあります。真偽は分かりませんが、面白い話です。ロゼッタストーンを対訳コーパスとして捉えると、翻訳メモリの開発者は、血縁的な意味での子孫というよりは、シャンポリオンの仕事を受け継いだというのが正しいのかも知れません。
「巨人の肩の上に立つ(Stand on the shoulders of giants)」という言葉を思い出します。特にアカデミックな世界ではよく使われると思いますが、先人の築いてきた知識の上に新たな知見を加えていく姿勢を指したものです。動画を見ると、TAUSのこのヴィジョン自体が、シナイ半島から発するヨーロッパ的な文化と歴史の上に築かれているものであることがよく分かります。もっとも、エウロペは巨人ではなくて女神ですが。いや、デカイのかも知れませんが。
「巨人の肩の上に立つ(Stand on the shoulders of giants)」という言葉を思い出します。特にアカデミックな世界ではよく使われると思いますが、先人の築いてきた知識の上に新たな知見を加えていく姿勢を指したものです。動画を見ると、TAUSのこのヴィジョン自体が、シナイ半島から発するヨーロッパ的な文化と歴史の上に築かれているものであることがよく分かります。もっとも、エウロペは巨人ではなくて女神ですが。いや、デカイのかも知れませんが。
今年のTAUS Tokyoでは、このヴィジョンも更にグレードアップしていました。詳細はいずれ公開されたときにでも、と思いますが「人権としての翻訳」など、やはりヨーロッパ(というか、EU)に根を持つ発想ということは改めて思いました。
日本でこうしたものを作れるのかという点では、文明論的な話にもなるのでわたしには少々手に余るところもあるのですが、こうした形で、翻訳とはいかなる意味を持つものかを問い直すことは非常に重要なことと思います。311以降の日本は、どうも現実が勝ちすぎるきらいがあって、そろそろ、そこから離れた思考というものも必要な時期だと思います。
日本でこうしたものを作れるのかという点では、文明論的な話にもなるのでわたしには少々手に余るところもあるのですが、こうした形で、翻訳とはいかなる意味を持つものかを問い直すことは非常に重要なことと思います。311以降の日本は、どうも現実が勝ちすぎるきらいがあって、そろそろ、そこから離れた思考というものも必要な時期だと思います。
2012年5月12日土曜日
地図を更新すること - 『三つの旗のもとに』
ベネディクト・アンダーソン、『三つの旗のもとに―アナーキズムと反植民地主義的想像力』が出版された。原著は持っていたがなかなか読み終わらなかったし(およそ3年放置)、読解のためには日本語の方がやはり助かる。
この図や、アンダーソンの観点でグローバリゼーションを見ると、経済のグローバリズムでよく言われる2極化、金融資本やグローバル企業が軽やかに国境を超えていく動きと、国境なき市場で行われる激しい競争から脱落したり、参加できない人間がローカルなコミュニティのなかに閉塞していくことの対比という構図が、かなり矮小化されたものであることが理解できると思う。
これは一断面ではあるが、全てではない。より豊かなものを引き出していけると思うし、またそうしなければならない。そのためには、貨幣の動きだけを追うのではなく、人と人の交流や、電信によって情報の拡散が容易になった結果、テロリズムが世界中で連鎖することになったような、新しいテクノロジーがもたらす結果や効果を検証し、追いかけていくことが重要なのである。
地図を90度回転させるだけで、世界はずいぶんと違って見えるものだ。ここに二重三重の意味を重ねていくのは、これから自分がやらなければならないことだと思う。そのためには、日本語と英語だけではどうも狭い。
タイトルにある「三つの旗」とは、フィリピン独立のための秘密組織である「カティプナン」、キューバの旗、そしてアナキズムのシンボルである黒字にAの文字が白抜きで入った旗を指している。要約の難しい本だが、電信や交通手段の発達によって発生したアナキスト同士のネットワークの視点からグローバリゼーションを捉え直すのが大きなテーマの一つとなっている。
キューバで起きた反植民地運動と武装蜂起の1年後に、それに呼応するようにフィリピンでもナショナリストの蜂起が行われる。これらを繋いでいたのがアナキズムであるというのが、基本的な見とり図である。国境を明確な区切りとして捉えるとき、ナショナリズムとアナキズムとは相反するものとして位置づけられるが、人と人の繋がりとして捉えたときには別の意味をもってくる。
本のなかでは、フィリピンでの反植民地運動と日本との関係の例として、独立運動によりスペインから弾圧され横浜に亡命していたホセ・リサールと、自由民権運動家でありジャーナリストであった末広鉄腸との交流が登場している。リサールに関しては日比谷公園に胸像があるものの、末広鉄腸などは日本史の教科書には滅多に登場しない人物であり、こうした周縁的な存在であった人物が浮かび上がってくるのはこの本の特に興味深い点である。
キューバで起きた反植民地運動と武装蜂起の1年後に、それに呼応するようにフィリピンでもナショナリストの蜂起が行われる。これらを繋いでいたのがアナキズムであるというのが、基本的な見とり図である。国境を明確な区切りとして捉えるとき、ナショナリズムとアナキズムとは相反するものとして位置づけられるが、人と人の繋がりとして捉えたときには別の意味をもってくる。
本のなかでは、フィリピンでの反植民地運動と日本との関係の例として、独立運動によりスペインから弾圧され横浜に亡命していたホセ・リサールと、自由民権運動家でありジャーナリストであった末広鉄腸との交流が登場している。リサールに関しては日比谷公園に胸像があるものの、末広鉄腸などは日本史の教科書には滅多に登場しない人物であり、こうした周縁的な存在であった人物が浮かび上がってくるのはこの本の特に興味深い点である。
通常、新聞などで見聞きする、一般名詞として用いられるグローバリゼーションという語は、もっぱら経済活動としてのそれに意味が限定されている。しかし、アンダーソンのいうグローバリゼーションは、ある場所で生まれた理念や思想がローカルな土地で固有の意味を持ちながら、人々を駆動していくプロセスを指している。上記の末広鉄腸とホセ・リサールの交流などはその典型的な例である。
読みながら、以下の図を思い出していた。『デザインのデザイン(原研哉)』に載っていたもので、関連のテキストごと引用する。
文化の流れを強調するため、ローマを頂点として日本まで流れる図になっているが、実際にはこれらの関係は双方向であり様々な繋がりがある。それでもこの図が重要なのは、視点の転換を見事に表しているからだ。これは僕がよく例に挙げる図で、高野孟(たかのはじめ)さんの「世界地図の読み方」という本を参照したものですが、ユーラシア大陸を90度回転させてみますと、ユーラシア大陸はパチンコ台に見立てることができます。
そうすると、日本はちょうど受け皿の位置にきますね。一番上の方にはローマ。文化はシルクロードを通って、中国、朝鮮半島を経て、日本に文物が伝わったと、一般的には言われていますが、当然パチンコの玉は跳ね回りながら進みますから、ある一定のルートからだけではなく、いろいろな方向を進みます。文化もそうじゃなかったかと思うんです。インド経由で東南アジアから海のシルクロードを通ってきたものも当然あるだろうし、ロシアのほうからカムチャツカ半島や樺太を経て入ってきたものもあると思います。椰子の実のように、ポリネシアの方から漂着したものもあるかもしれない。つまり、日本というのは世界中の文物の影響にさらされてきたのです。
この図や、アンダーソンの観点でグローバリゼーションを見ると、経済のグローバリズムでよく言われる2極化、金融資本やグローバル企業が軽やかに国境を超えていく動きと、国境なき市場で行われる激しい競争から脱落したり、参加できない人間がローカルなコミュニティのなかに閉塞していくことの対比という構図が、かなり矮小化されたものであることが理解できると思う。
これは一断面ではあるが、全てではない。より豊かなものを引き出していけると思うし、またそうしなければならない。そのためには、貨幣の動きだけを追うのではなく、人と人の交流や、電信によって情報の拡散が容易になった結果、テロリズムが世界中で連鎖することになったような、新しいテクノロジーがもたらす結果や効果を検証し、追いかけていくことが重要なのである。
地図を90度回転させるだけで、世界はずいぶんと違って見えるものだ。ここに二重三重の意味を重ねていくのは、これから自分がやらなければならないことだと思う。そのためには、日本語と英語だけではどうも狭い。
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