2013年3月28日木曜日

Bonobo / The North Borders


Bonoboの新譜が発売された。これはいいアルバム。今年のベスト候補じゃないだろうか。

2013年3月16日土曜日

企業が「帝国化」する

『企業が「帝国化」する』を読了。

かったるい読書。本がかったるいわけではないが。

乱雑にまとめると、筆者が属していたアップルや、あるいはグーグルのような企業が私設帝国と化していき、仕組みを作る側とそれを回す側との格差が開くことや、その構造がどのように作られているのかを述べている本である。

仕組みを作る側と回す側に分割されて云々というのは、元々企業というものはそうした仕組みで動いているもので、成長した企業が帝国化してサプライチェーンに入るかどうかが特定の企業の分かれ道になるという話も、日本各地にある企業城下町を見てみれば馴染みのあるものだ。鎌田慧の『自動車絶望工場』などはトヨタのそうした一面を表している。

むき出しの資本の論理に個人が絡め取られていくという話は今にはじまったものでもない。結局のところ、根底にあるのはグローバリズムによって先進国の中産階級の食い扶持が減っているということで、これもまた大昔からよく言われていることだ。確かに登場してくる情報はアップデートされたものだし、興味深いのだけれど、どこかクーリエ・ジャポン的な印象がある。

2013年2月28日木曜日

2013年 初日記

気付いたら2013年も2ヶ月が過ぎてしまおうとしている。

転職して2ヶ月経過、というところである。わたしの役割はといえば、まあよくあるカオスから秩序を作っていくものというか、切り込み隊長というか、そんなものである。

この手の仕事は、歯磨き粉のチューブから残った中身を絞り出すように、はじめのうちはけっこう調子が良いのだけれど、だんだんとしんどさが増してくる。歯磨き粉の味見やどう使っていくかを考えるのが楽しい人や、地道に絞り出すのが好きな人など、色々なタイプの人間がいるが、自分は絞りだす人としては凡庸極まりないというか、その点では自分よりももっと優れた人間がいることは素直に認めている。

しかし、たまには苦手なこともやらなければいけないものだし、やっている間に対処している問題に対する認識というものも変わってくる。

個々のお金になる作業というものは、本質的には会社にとっても、個人にとってもその先の行方を決定付けてしまうような本質的な問題ではなく(もちろんそれがあって事業や生活がある点で重要ではあるが)、その先にある目標と課題設定が何であるかが問題なのだろうと思う。というか、そこを見失うと長期的には袂を分かつようになるのではないかと思う。

そういう点では、いささか牽強付会であるにせよ、自分の生存戦略とはそう遠くないところにいるという点でなかなか面白い環境にいるものだとは思っている。

2012年12月31日月曜日

ファスビンダーと美しきヒロインたち

渋谷のイメージフォーラムで上映中のライナー・ヴェルナー・ファスビンダー特集、『ファスビンダーと美しきヒロインたち』に行ってきた。ネタバレを含むので注意。

彼の作品を観るのはこれが初めてで、これらの作品の背景となっている戦後のドイツ社会の変化についても、どうしても把握しきれないところがあるが、そうした点に関する深い洞察が無くても楽しめてしまう物語的な面白さと、そこに留まらない表現力にはとても驚かされた。

未知の映画監督の作品を観るときには、自分の場合には例えばカサヴェテスのときもそうだったが、色んな作品を横串で観た方が良いと最近は思うようになってきている。こうしたイベントの場合などは、企画している人の意図について後から考える材料にもなるし、素人が盲打ちで観ていくよりはよほど精度の高い見取り図を得られる。詳しくなった後であれこれ文句を言うのも含めて、色々な面でお得である。

ドイツというのは、わたしにとっては近くて遠い国で、知識のマップがまだらになっている。そういうなかで、この3作品に触れて、ドイツ社会の規範性の強さや、それと相反するような集団で動く際の倫理性の欠落、またそれらが個人(あるいは、もっと限定するなら愛)をどのように規定するかという点が問題になっているのだろうと思う。

規範性の問題が最も色濃く出ているのが『マルタ』で、ジェットコースターでゲロ吐いてるところでプロポーズをしたり、日焼けしすぎで真っ赤になっているところでマルタを抱くなど、明らかにマルタの夫であるヘルムートの行動は異常なのだが、マルタは友人にそのことについて相談しつつも、その事実を体面を気にして覆ってしまう。一方でヘルムートは自分の行動はマルタを愛するが故のものだと説明するが、彼はマルタがあるべき夫婦の規範に囚われるタイプであることを理解して、自覚的に行動している。

しかし『マルタ』のこのシーンは凄い

倫理性の欠落については、『ローラ』がそれに当たるが、それが元々あるのではなく、様々な人を巻き込みながら達成されるものとして描いている。堅実で汚職など許さないフォン・ボームがローラへの愛が故に敗北し、ローラはフォン・ボームと結婚しながらシュッケルトから娼館を譲り受けもする。

観たなかでも最も面白かったのが『マリア・ブラウンの結婚』だったが、この作品に関しては、規範性と倫理の問題、また愛の問題のバランスが最も良く、また構造としても分かりやすい。主人公のマリアは、上記のローラと同系統の人物だが、『ローラ』が群像劇であったのとは異なり、マリアを主人公としたピカレスク・ロマンの色合いが強く、マリア個人の背景がもう少し詳しく描かれている。

マリアがローラと同じ系統の人物であると書いたのは、彼女が自分に向けられた愛を利用して様々なものを手にしていくことに由来している。『マリア・ブラウンの結婚』における登場人物たちはそれぞれに求めるものに渇望を見せており(彼らはしばしば、オブセッシブに煙草を吸ったり、ピアノの鍵盤を乱雑に叩いたりする)、主人公のマリアだけはそうした執着とは無縁だ。マリアにそれを可能にしているのは、結婚してはいるが夫が不在であるという状況であり、また不在の夫を愛しているという言表である。
「じゃがいもがなきゃ大根を使えばいい。でも、愛にだけは代用が効かない。どうして愛する人はただ一人なんだろう。」
上記は愛に関する作中のセリフである。言い換えると、彼女は代用不能なものを餌にして、交換可能なものを手に入れている。マリアはとりわけ、夫が身代わりで刑務所に収監されてからは、この構造を自覚的に利用しはじめる。

自分の持つ力を冷静に、自覚的に運用する点ではマリアと『マルタ』におけるヘルムートも同じだが、ヘルムートが不快なのは自らの保身に使っている点にある。『マルタ』の後味の悪さは、マルタとヘルムートの間に横たわる規範性が、作中で不動のものとして固定されてしまうところにある。

一方で、マリアに魅力があるのは自らの役割をひっくり返し、経済的主体として「自らを確立した」ことで合理的な自己目的に向けて最適化されている点にある。そうした在り方は、レッセ・フェール的な市場における適切解であり、彼女はやはり『ローラ』の登場人物たちと同じ場で活躍する。この見立てでいくと、『ローラ』におけるフォン・ボームは、不正を許さない穏やかな紳士として描かれているが、市場統制派なのだろう。

マリアに戻ると、自分を支えてきた構造が崩れることになるからこそ、夫が急に釈放されることが決まったときには喜ぶよりも先に狼狽したし、その後で夫が本当に戻ってきたときにも複雑極まりないな表情を浮かべることになる。

最大限の抵抗として夫に全ての財産をくれてやることで男としての存在感を無くし、夫不在の状況を作ろうとしているが、それもビジネスパートナーとの取り決めによって対等の財産を手にすることが判明し、彼女を支えていた空白は埋まってしまう。終始一貫して執着とは無縁だったマリアが、その象徴としての煙草に火を点けることで物語の幕が下りる。

マリアはあらかじめ求めるものが失われているが故に、何でも手に入ることができる。この物語構造は、全てを持っているが肝心なものは手に入れられないという、『市民ケーン』でも有名な人物造形を裏返したものだ。不在の夫から定期的にバラの花が届くのはオーソン・ウェルズへの目配せと考えるのは、穿ちすぎだろうか。

2012年12月9日日曜日

本棚の崩落

久しぶりの地震があって、翌日になって本棚が崩落した。

使っている本棚は、引越しの際にネットで適当に注文した安物で、見た目はいいが微妙なバランスを保っていないと崩れてしまう。おかげで、だいたい年に一度は崩落事故が起きている。

またかと思って、まずは本を救出して床に広げる。大した冊数でもないのに、物理的な紙の量に少し驚く。全て読んでしまった後だし、始末してしまった方が良いような気もしてくる。

Kindleを使っていれば、全てがあの薄いデバイスのなかに収納される。収納はそれで解決する。一方で別の解決しない問題も出てくる。

電子図書において致命的なのは紙というメディアに対するフェティシズムが満たせないことではなく、本棚という概念が存在しないことであり、各人が本棚を通じて構築している理解が俯瞰できない点にある。

アトムとビットとの対比を考える。ビットの世界においてある情報との遭遇は必然的なものになりつつあり、偶然的な要素は減っている。

本棚が崩落して、結果として本の配列が変わり、どこかで私の理解も更新される。電書のシステムは本棚の見た目はコピーしていても、こうした振る舞いは実装できていない。これが実装できたとき初めて、電書が書物を上書きする。

2012年12月4日火曜日

Electraglide 2012

エレグラに行ってきたんですよ、ということで。

幕張の遠さを舐めていたのと、入場に時間がかかったために高木正勝の最後の方から参加。その後、Kode9Amon Tobin、電気グルーヴ、Squarepusher、一休みを入れてOrbitalAndrew Weatherallという流れ。

隙間でDJ KrushDJ Kentaroも観られて、この面子で8800円って相当安いなあと思う。本当はFour Tetも観たかったんだけど、今回はSquarepusherにした

Amon TobinISAMは美しかった。ただ、事前の期待を裏切るような何かはあまりなく、またセットが意外と小さいこともあってあまり乗り切れなかった。


個人的には、Squarepusherが一番良かったと思う。この人がライブでやってることは、表面的な音が変わっていても基本的には同じで、原曲を留めない改変やノイズの追加が楽しい。CDで聴いてたら苦痛になるんだけどライブではいけてしまう。

後半になってベースを弾き始めてからが本番。どんなエフェクター使ってるのか知らないけど、とんでもない音を繰り出してきた。最後はお約束の"Journy to Reedham"で締めるも、イントロのピコピコ音とリズムぐらいしか把握できなかった。



・・・

あちこちで言われているように、ゴミは散乱してるし禁煙のフロアで喫煙してる奴はいたし(煙がどうこうというより、危険)、フジロックと比べるとだいぶお行儀が悪い。クラブなんてそんなもんだと言ってしまえばそうなんだけど、風営法絡みでの署名運動をしている横でそうした光景が広がっているというのは、色々見直したほうが良いんじゃないかと思ったり。

自分はその手の音楽はよく聞きつつも、夜寝ないとダメなのであまりクラブには通っていなかったので、昼間にやれば解決なんじゃないかと思うんだけど、そういうわけにはいかんのでしょうか。

2012年11月5日月曜日

【読書】ここは退屈迎えに来て/山内マリコ


『ここは退屈迎えに来て』を読んだ。

三十路帰郷モノとでも呼べばいいのか、都会に出ていた女性が何かのきっかけで田舎に帰ってからの生活を描いたマンガや小説はそれなりに需要があるようで、これもその一種。

ネットで話題になっていたのは、三浦展のファスト風土論に引きつけてある部分で(大した分量ではない)、既存のフォーマットの上に味付けとして使われているのだと思っていたら、巻末の参考文献に『ファスト風土化する日本』が載っていた。

これまで自分が読んできたなかで、こうした形で読者の読みに方向性を与えている小説に出会ったことが無かったので、けっこうな驚きだった。

登場するアイテムがいちいち的確(というか、同世代の匂いがすると思っていたら同い年だった)なことや、「地方都市のタラ・リピンスキー」でネットの小咄にあるようなどんでん返しを持ってくる辺りで、テクニック、マーケティングで書かれている部分が非常に大きい作品なのではないかと思った。

そして、そのために作品自体が閉塞してしまっている感がある。

読み進めるに従って過去に遡っていく形になっているが、そのことが登場人物の未来を形作っていく何かを明らかにするわけでもなく、現在の姿に新たな彩りを加えるわけでもない。どん詰まりの現在に行き着いて、そこで終わりである。

プロダクトとしての完成度は高いが、そこから先が無い。

それが自分の世代だと言ってしまえば、そうなのかも知れないが。幻冬舎の本だし、ミニマルな点に共感しながら読んでいるのがちょうど良いのかも知れない。