2012年5月15日火曜日

Moses Core

ちょっと気になるニュースが。

EUが資金援助、自作の機械翻訳システムが作れるオープンソースプロジェクト「MosesCore」が本格スタート

MosesそのものはオープンソースのSMTエンジンとしてよく知られているので、特にどうということはないのですが、この記事だけだといまいち何なのか分からないですね。Moses Coreのウェブサイト(リンク)を見ると、下部にこうした記述があります。
"MosesCore is supported by the European Commission Grant Number 288487 under the 7th Framework Programme"
まず、このMoses Coreを支援している"7th Framework Programme"は、リスボン戦略(リン12)という知識経済の振興を目的としたEUの経済戦略に基づいて進められているようです。これ自体、読んでいてなかなか面白いですね。

プログラムの詳細はEUの日本語サイト(リンク)にも掲載されています。Moses Coreについて特に言及はありませんが、PDFを読んでいくと、ICTの推進という辺りで微妙に気になる表現が。
-ソフトウェア、グリッド、セキュリティ、信頼性-ダイナミックで順応性・信頼性も高 いソフトウェアと各種サービス、また、新種の処理アーキテクチャ(ユーティリティとして提供されるものも含む)
この手の官僚ドキュメントの読み方に通暁しているわけでもないのですが、色んな情報を仕入れた上で読むと、あー、まあ、そういうことなのかなあ、という部分はあります。

ちなみに、"European Commission Grant Number 288487"でググると北京で開催されたTAUSの記事も出てきます(リンク)。ウェブサイトよりもこっちの方が分かりやすいですね。Mosesに関しては、ダウンロードして遊んでみて放置していたのでGUIで使えるようになると助かるのですが・・・

2012年5月14日月曜日

巨人の肩の上から - TAUSと日本

過去に自分の書いた色々な文章を整理していたところ、TAUSに初めて参加したときのものが出てきました。我ながら多少気の利いたことを書いていたので、再構成してアップします。

先日のTAUS Tokyoでも壮大なヴィジョンが提示されていましたが、2年前のもっとシンプルなものでした。動画がyoutubeに上がっています。


音声抜きで絵を見ているだけでも何となく理解できると思いますが、ここでは、翻訳という行為を、異言語間での情報の集積と伝播の過程のなかで継続して用いられてきた技術として捉えています。

その上で、雲(クラウド)に届こうというバベルの塔や、世界最古の対訳コーパス(翻訳メモリ)としてのロゼッタストーンなど、よく知られたものを現在の文脈で解釈しています。特に、翻訳メモリなどは馴染みのある人にとっても最近登場してきたものとして受け取られがちですが、その発想は文字が発明されたときからあったわけですね。

そういえば、翻訳メモリを開発したのは、ロゼッタストーンを解読したシャンポリオンの子孫だという噂を聞いたことがあります。真偽は分かりませんが、面白い話です。ロゼッタストーンを対訳コーパスとして捉えると、翻訳メモリの開発者は、血縁的な意味での子孫というよりは、シャンポリオンの仕事を受け継いだというのが正しいのかも知れません。

「巨人の肩の上に立つ(Stand on the shoulders of giants)」という言葉を思い出します。特にアカデミックな世界ではよく使われると思いますが、先人の築いてきた知識の上に新たな知見を加えていく姿勢を指したものです。動画を見ると、TAUSのこのヴィジョン自体が、シナイ半島から発するヨーロッパ的な文化と歴史の上に築かれているものであることがよく分かります。もっとも、エウロペは巨人ではなくて女神ですが。いや、デカイのかも知れませんが。

今年のTAUS Tokyoでは、このヴィジョンも更にグレードアップしていました。詳細はいずれ公開されたときにでも、と思いますが「人権としての翻訳」など、やはりヨーロッパ(というか、EU)に根を持つ発想ということは改めて思いました。

日本でこうしたものを作れるのかという点では、文明論的な話にもなるのでわたしには少々手に余るところもあるのですが、こうした形で、翻訳とはいかなる意味を持つものかを問い直すことは非常に重要なことと思います。311以降の日本は、どうも現実が勝ちすぎるきらいがあって、そろそろ、そこから離れた思考というものも必要な時期だと思います。

2012年5月12日土曜日

地図を更新すること - 『三つの旗のもとに』

ベネディクト・アンダーソン、『三つの旗のもとに―アナーキズムと反植民地主義的想像力』が出版された。原著は持っていたがなかなか読み終わらなかったし(およそ3年放置)、読解のためには日本語の方がやはり助かる。
タイトルにある「三つの旗」とは、フィリピン独立のための秘密組織である「カティプナン」、キューバの旗、そしてアナキズムのシンボルである黒字にAの文字が白抜きで入った旗を指している。要約の難しい本だが、電信や交通手段の発達によって発生したアナキスト同士のネットワークの視点からグローバリゼーションを捉え直すのが大きなテーマの一つとなっている。

キューバで起きた反植民地運動と武装蜂起の1年後に、それに呼応するようにフィリピンでもナショナリストの蜂起が行われる。これらを繋いでいたのがアナキズムであるというのが、基本的な見とり図である。国境を明確な区切りとして捉えるとき、ナショナリズムとアナキズムとは相反するものとして位置づけられるが、人と人の繋がりとして捉えたときには別の意味をもってくる。

本のなかでは、フィリピンでの反植民地運動と日本との関係の例として、独立運動によりスペインから弾圧され横浜に亡命していたホセ・リサールと、自由民権運動家でありジャーナリストであった末広鉄腸との交流が登場している。リサールに関しては日比谷公園に胸像があるものの、末広鉄腸などは日本史の教科書には滅多に登場しない人物であり、こうした周縁的な存在であった人物が浮かび上がってくるのはこの本の特に興味深い点である。
通常、新聞などで見聞きする、一般名詞として用いられるグローバリゼーションという語は、もっぱら経済活動としてのそれに意味が限定されている。しかし、アンダーソンのいうグローバリゼーションは、ある場所で生まれた理念や思想がローカルな土地で固有の意味を持ちながら、人々を駆動していくプロセスを指している。上記の末広鉄腸とホセ・リサールの交流などはその典型的な例である。
読みながら、以下の図を思い出していた。『デザインのデザイン(原研哉)』に載っていたもので、関連のテキストごと引用する。
これは僕がよく例に挙げる図で、高野孟(たかのはじめ)さんの「世界地図の読み方」という本を参照したものですが、ユーラシア大陸を90度回転させてみますと、ユーラシア大陸はパチンコ台に見立てることができます。

そうすると、日本はちょうど受け皿の位置にきますね。一番上の方にはローマ。文化はシルクロードを通って、中国、朝鮮半島を経て、日本に文物が伝わったと、一般的には言われていますが、当然パチンコの玉は跳ね回りながら進みますから、ある一定のルートからだけではなく、いろいろな方向を進みます。文化もそうじゃなかったかと思うんです。インド経由で東南アジアから海のシルクロードを通ってきたものも当然あるだろうし、ロシアのほうからカムチャツカ半島や樺太を経て入ってきたものもあると思います。椰子の実のように、ポリネシアの方から漂着したものもあるかもしれない。つまり、日本というのは世界中の文物の影響にさらされてきたのです。


文化の流れを強調するため、ローマを頂点として日本まで流れる図になっているが、実際にはこれらの関係は双方向であり様々な繋がりがある。それでもこの図が重要なのは、視点の転換を見事に表しているからだ。

この図や、アンダーソンの観点でグローバリゼーションを見ると、経済のグローバリズムでよく言われる2極化、金融資本やグローバル企業が軽やかに国境を超えていく動きと、国境なき市場で行われる激しい競争から脱落したり、参加できない人間がローカルなコミュニティのなかに閉塞していくことの対比という構図が、かなり矮小化されたものであることが理解できると思う。


これは一断面ではあるが、全てではない。より豊かなものを引き出していけると思うし、またそうしなければならないそのためには、貨幣の動きだけを追うのではなく、人と人の交流や、電信によって情報の拡散が容易になった結果、テロリズムが世界中で連鎖することになったような、新しいテクノロジーがもたらす結果や効果を検証し、追いかけていくことが重要なのである。

地図を90度回転させるだけで、世界はずいぶんと違って見えるものだ。ここに二重三重の意味を重ねていくのは、これから自分がやらなければならないことだと思う。そのためには、日本語と英語だけではどうも狭い。

2012年5月7日月曜日

言語による論述スタイルの違いについて

今年のGWは引きこもって読書と考えていたが、最終的には1500ページぐらいだった。

読む本にもよるのでこれで多い少ないはあまり意味がないけれども、多読しているよりも一冊をちゃんと読んだ方がいいような気もする。ただ、一冊を「ちゃんと読む」というのは難しくて、関連する本を並べながら共通する部分を取り出して差分を整理していく方が、少なくとも自分にとっては効率が良い。また、本というものは常に他の本との関わりのなかに存在しているので、一冊だけ読むというのはそもそも、あまり意味のない話であったりもする。

読もうと思っていたジャック・ドンズロの『都市が壊れるとき』や、構成主義の勉強でピアジェの本など読もうと思っていたが、進まなかった。どうもフランス圏の本は読みにくい気がする。表現やレトリックの問題もあるかも知れないが、これはフランス語特有の記述の方式もあるんじゃないかと思ったりもする。



カプランによる、各言語のコミュニケーションや記述のスタイルをまとめたこの図はけっこう面白い(なぜか、ずっとフーコーだと思い込んでいた)。それぞれの言語には複数の言語が含まれていて、例えばEnglishにはドイツ語、オランダ語、ノルウェー語、デンマーク語、スウェーデン語などが含まれる。これらの特徴をまとめると、

  • 英語:テーマから話が脱線したり、主題から離れることはなく直線的に進む
  • セム:テーマと、それに対置される考えの間を行ったり来たりする
  • 東洋:直接的でなく、テーマの周りを様々な視点から語る(日本語、中国語など)
  • ロマンス:しばしばテーマから脱線するが、脱線もまた豊かさのなかに含まれるため問題ない(フランス、イタリア、スペイン、ルーマニアなど)
  • ロシア:ロマンス語と同じようにしばしばテーマから脱線するが、テーマに対置される考えも含む

フランス人やイタリア人の話に脱線が多い、というのは話をしていると確かによく感じることで、笑える点ではある。むしろ、あいつらほぼ脱線だなと。

実際のところ、この分類はインド・ヨーロッパ語族の上での分け方に合わせた方が分かりやすい気がするが、これらの言語の成立の流れ、ギリシャ語からロマンス語(ラテン)とロシア(キリル系)に分かれ、ロマンス語から英語へと言語が発展していった流れを考えると納得できるものがある。

文字の上でもアルファベットとキリルで分岐している。宗教上のことも、ざっくり分けるとカトリックと正教徒とで分かれるのではないかと思う。ルーマニアは正教徒なので、言語と一対一で対応しているわけではないけれども。

翻訳について考えるときにも、この論述スタイルは考慮しておく必要がある。多くはドキュメントの構成の段階で決まるものだが、この分け方でいえば、テクニカルコミュニケーションというのは英語のスタイルに近いものになっている。単線的で、誤解を産まない表現が求められる。

日本語で書いたPR文などは、翻訳しても使えないというのが業界では定説になっていると思うが、恐らくこの記述スタイルの問題がある。ひとまず英語に訳した上で再構成するという手段が取られることが多いが、多くのサンプルで比較してみると、上記のグルグルをまっすぐな↓に近づけている部分があるのではないかと思う。

2012年4月30日月曜日

caf´eから時代は創られる


caf´eから時代は創られる(飯田美樹著)』を読了。面白くて一気に読んでしまったのですが、刺激に満ちた読書でした。


まともな書評については、中原先生のブログ(リンク)を読むのが良いと思います。

タイトル通りカフェに関する本ですが、いわゆるカフェ本ではなく、ピカソや藤田嗣治、アンドレ・ブルトン、モディリアニらの新しい才能を生みだす場として成立していたカフェについて書いた本です。

ここでいう「カフェ」とは、後世に天才と称されることになる人物達が、独立した才能としてはじめから存在していたのではなく、なにかしらの場や人々との繋がりを通して天才に「成って」いく場、中井久夫氏の云うところの小集団現象としての天才を生み出す場です。

特に興味深かったのが、女主人の運営するサロンと、商売として営業しているカフェとの比較を通して、後者が上述のような場として機能した理由を分析したくだり。

サロンでは、女主人が自らの私財を投げうって料理や飲み物を来客へ提供していることから、その場で交される議論に純粋なプレイヤーとして参加できないために、色々な配慮や軋轢が生まれてしまう。その反面、カフェの店主はあくまでもサービスの提供者であり続け、そこで繰り広げられる会話の内容には深入りしないために議論が深まっていったとのこと。

この本のなかでは、未来の天才たちが共通に持っていた、自分の考えを簡単には人に明かさない点が強調されています。これは過去に彼らが周囲や社会との摩擦のなかで身に着けた特質ですが、この点を考慮すると、店主が口を挟んでくるなかでは議論が深まる前に口を閉ざしてしまう結果が簡単に予想できます。

もちろん、趣味でやっているサロンと、ビジネスでやっているカフェとでは主人の関わり方が異なってきますが、積極的に介入しない方が上手く回るというのは興味深いですね。こういう現象は、色々なところで見られます。

網野善彦的にえば、サロンは有縁の場であり、カフェは無縁の場です。

サロンにおいて、その場を取り仕切っている女主人へ反対意見を表明することは、その関係に含まれている偏っていた部分(恩着せ)が負債に転化してしまう可能性があります。分かりやすく言えば、縁がしがらみになってしまう。

反面、無縁の場であるカフェにおいては、コーヒーやパンの代金を払った時点で、既に店主と客との関係は完結しているため、しがらみに転化するような強い縁が生じることはありません(繰り返せば発生しますが)。

大名達からも特権を認められた、無縁の自由都市である堺が発展し、巨大な富が生まれ、千利休を代表とした茶の湯が生まれてきたことと、あぶれ者であった芸術家達が集まって切磋琢磨しあいながら才能を開花させていったカフェとは相似形を描いていないでしょうか。

なんだか話がズレましたが、有形無形を問わず、何らかの「場」を作ろうとするに当たっては様々なインスピレーションが得られる本です。とりわけ、

2012年4月26日木曜日

LEGO Serious Play™ その4 構成主義、モンテッソーリ教育、Googleの創業者たち

Lego Serious Playについて、これまではその効果や価値について書いてきましたが、源流を辿ってみることにします。

はじめに言ってしまうと、LSPは構成主義 (Constructivism) の考えに基づいて作られたメソッドです。構成主義について真っ向から書こうと思うと哲学の世界に迷い込んでしまって、そうした議論になると自分の手に余るのですが、基本的な考え方としては、人間が自分の環境をどのように認識(構成)していくかを問うたものです。

教育的側面から見ると、学習というものを、教師から生徒への体系だった知識の伝達と考えるか、あるいは生徒が自力で物事を発見していく過程として捉えるか、という問題です。伝統的な学校教育が前者であるのに対して、構成主義は後者の立場にあります。

構成主義における学びとは、学習者があらかじめ持っている知識や興味を出発点として、ある理解を構成する特色と経験との間の相互作用として立ち上がるものとされています。言い換えると、出来上がった客観的、体系的知識を教師が植え付けるのではなく、学習者それぞれが持っている情報と学ぶ内容を紐付け、意味付けていくプロセスということになります。ここでは教師は生徒を先導するのではなく、その学習を促すファシリテーターという位置づけです。

こうした構成主義の考え方について、学習者が体系的な知識を身につけるには十分ではない、という批判や反駁を予想することは簡単にできます。もちろん、現実には体系的学習と、発見的学習とのバランスを見ながら実践していくことになるのでしょう。そして、その実践者としては貧困層や知的障害児への教育を行なっていたマリア・モンテッソーリという人物がいます。

マリア・モンテッソーリの名前を聞いたことのない人でも、彼女の考案したモンテッソーリ教育について聞いたことがあるかも知れません。特にここ数年、Googleのセルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ、Amazonのジェフ・ベゾス、wikipediaのジミー・ウェールズなど、今のウェブ業界の巨人達がモンテッソーリ教育を受けていたことは有名な話です。Googleについての秀逸なルポルタージュ、"In the Plex(グーグル ネット覇者の真実)"でもこの事実は繰り返し強調されています。

恐らくこれは偶然ではなくて、以前にも書いたブリコラージュ的な方法論というのは、プログラミングと親和性が高いのですね。そして、レゴに関して言えば、LSPよりも前に、ピアジェと親交のあったシーモア・パパートという学者が、レゴ・マインドストームというレゴとプログラミングを組み合わせたおもちゃを開発しています。

この人がまたMITの教授であったことからも、アメリカの知的潮流の底流を見たような思いがします。実はわたしもモンテッソーリ教育を受けたクチですが、構成主義についてももLSPのトレーニングを受けてから知ったものですし、LSP経由でもう一度モンテッソーリに戻ってくるというのは、とても奇妙な感じがします。宿命的なものすら感じられるというか。

2012年4月22日日曜日

Studio2009はAK-47か

業界のデファクト・スタンダードのツールであるTrados。Studio 2009になってからインターフェースと設計思想ががらりと変わったせいで拒絶感を示すユーザがいました。未だに使っていない人も多くいます。

自分もあまり好きではなかったのですが、理由をよくよく考えてみると、作成者の想定した使い方しかできない(少なくともはじめはそのように感じられる)ことが根本にある気がします。

プロジェクト管理の視点のみで語ると、2007までのTradosは、洗練はされていないものの、WorkbenchとTagEditorの個別の機能を組み合わせると色々なことができました。「色々なこと」のなかには、試行錯誤できるパターンの数やバッドノウハウも含んでいます。結果として、受け取るファイルのデータ構造やテキスト配置が整理されていなくても、系全体としては何となく処理できてしまう特性がありました。

AK-47が過酷な環境でも動作するという話(リンク)は、これに近いものがあります。ゆとり、疎結合、遊び(可動範囲)といった領域をとっておくと変化へ対応できる可能性が増える。逆に系を構成する部品たちの精度と緊密性が高まると、意外と簡単な問題で躓いたりする。

この意味で、Studio2009を単独で見るとイノベーションのジレンマに陥っているように見えるのですが、TMSなどにより原文データが整理されたものになれば、一概にそう言えるものでもないのですね。いつまでもジャングルでゲリラ戦をやってるわけにもいかんので、別の戦場で戦いましょうというのが開発側の基本的な考えです。

しかし、より重要なのは、Studioが連携を図るTMSなどのシステムは、特定の課題を解決するためのツールとは異なり、多くの場合においてローカリゼーション・プロセスのリエンジニアリングを意味するものであるという点でしょう。