2012年3月20日火曜日

ゆりいか

デイリーポータルの北山珈琲店についての記事を読んでいて、下記の画像は「わかった!」という瞬間をとてもよく表しているなと思った。

実際ここの珈琲はこんな印象を受ける
苦手な食べ物でも、美味しく調理されたものや、新鮮な素材のものを食べると味が分かるようになって食べられるようになったりする。味の本質に触れると、その記憶を元にして舌の上にある食べ物の味を解釈するようになる。

誰かに倣って、「美味い料理がある。料理の美味さというものはない」などと言ってみる。これは本当か。少なくとも味覚に関して記憶と解釈とは共犯関係にあると思う。

読書進行中

色々と一段落したので、勉強のためにいわゆる実務書の類に手を出している。これまでちゃんと学んでこなかった、財務・会計、マーケティング、ITなどの分野が中心。自分の本棚は非-実務的な内容の本ばかりに偏っているので、バランスは良くなっている気はする。ちなみに自己啓発書の類は本というカテゴリに属していない。

だいたい1月で20冊ぐらいのペース。分野を絞って共通項と固有の部分を切り分けながら読んでいるのと、実務書は読んで理解されるために作ってあるので、通常よりも早く進む。

色々読んでいると、当然ながら優劣というものは出てくる。良い作者は具体的な事例を引きつつも抽象度を高めようとしているし、そうでない場合には具体論ばかりでポイントが分からない。学術的な内容で抽象度が高い場合には、自分の経験と照らし合わせることができないと腑に落ちないことが多い。IT投資の経済性評価に関する本など、一通りプロジェクトが終わってようやく「読める」ようになった。

この辺りのさじ加減は色々と難しそうだが、ここで訳されているルーマンの『新しい上司』などは理想的なバランスだと思う。というか、ルーマンがこんなことをやっていたのかと素直に驚いた。

2012年3月19日月曜日

検索とかSNSとか情報の流動性について

GoogleがFacebookの後追いばかりしていたり、個人情報を集めたり、変な変更ばかりするのですっかりダサくなってしまっている。数年前までは、Googleがこんな状況に陥ることになるとはまったく想像できなかった。

そういうFacebookも、一時期は「いいね!」ボタンを押させるための◯◯検定とか■■占いが広まって終わった感が溢れていたものの、タイムラインへの切り替えで在るべき姿に近づいたので、しばらくは今の状態が続くのだろうと思う。

ソーシャル系のサービスが隆盛を誇っている理由として、個人こそがキラーコンテンツでありGoogleにはそれが無かったとよく言われているが、これには同意できない。個人というものは、少なくともシステム上では、あくまでもその人から流れてくる情報の質を表す符丁でしかない。起点であって目的ではない。それをどうマーケティングに利用するかというのは二次的な問題だ。

検索はネット上の情報量が増大するのに対して、目的の情報を効率的に発見して利用するために作られた。あくまで主体的に情報を探す人のためのもので、情報を消費したい人のために最適化されたものではない。

情報を消費したい人は、ネット上でインプットはしてもアウトプットはしない場合が多い。Googleの検索エンジンでは、ネット上の情報をGoogleのサーバ内に格納しインデックス化している。要はアウトプットのない人はGoogleのなかには存在しない。文脈は違えど、ブログの読者やSBMサイトに絡んでそうした議論はよく見かけた。しかし数としてはこちらの方が多いだろう。

彼らにアピールするにはどうするか?自分から探さなくても自分好みの情報がやってくる仕組みが必要になる。

誰かにとって「好み」の情報が出てくるようにするには、アマゾンのサジェスチョンのように、指向性のインプットが必要になる。SNSではこの最初のステップの起点が知っている人間(一方向にせよ双方向にせよ)に設定されている。作られた当初はコミュニケーションの場となることが目標だったのだと思うが、やがて検索抜きにお目当ての情報が出てくる仕組みとして機能し始めた。そのようにわたしは理解している。

Information wants to be freeという有名な言葉がある。freeは無料や自由など文脈によって様々に解釈されるが、わたしは、情報は滞留を避けて流動性が高まるように振る舞うのだと思っている。ここでいう情報とは川の流れのようなコミュニケーションの連鎖のことであり、個別のコンテンツではない。

ところで、このInformation wants to be freeという言葉はそれを広めたクリス・アンダーセンのものではなく、Wikipediaによれば元々は米国の作家のStewart Brandによる言葉である。原文はこちら。
On the one hand information wants to be expensive, because it's so valuable. The right information in the right place just changes your life. On the other hand, information wants to be free, because the cost of getting it out is getting lower and lower all the time. So you have these two fighting against each other. 
一方、情報は高価になりたがる。とても価値のあるものだからだ。適切な場所に置かれた適切な情報は、人々の人生を変える。その一方で情報は無料になりたがりもする。情報を得るコストが徐々に縮小していくものだからだ。相反する2つの方向性が存在しているのである。
検索は無くなりはしないが、指向性を持った人のためのものになっている。何か情報発信をするときには、検索に対してPermalinkを提供する一方で、SNSを起点として情報の流動性を確保することも重要になっている。まさに相反する2つの方向性のなかに置かれるために。

2012年3月17日土曜日

スマホの身体性

5年ほど使ったNokiaの携帯電話からiPhoneに切り替えたのが2010年。違和感は想像以上だった。

違和感の一番の原因は、画面を見ながらでないとタイプができないという点。長いこと使っていた携帯電話では、ポケットのなかに手を突っ込んだままでもメールを打てたけれど、タッチパネルではそんなことはできない。

スマホと携帯電話を分ける道はどこかといえば、技術的には様々な区別をつけられるだろうけれども、利用者の経験という点でいえば、タッチパネルかボタン入力かという点なのだと思う。身体の延長としての機械ではなく、神経の延長としての機械。外部記憶装置としてのインターネットへの接続。身体化されないデバイス。

こんなことを2年前に考えていた。今更こんなことを書き直すのは、ここで見た視覚障害者用の携帯電話にその記憶を呼び覚まされたから。



自分以外の人がどこまでタッチパネルに不便さを感じているかは分からないが、音声入力が実装されたのも、タッチパネルの不便さがあったのではないかと思う。物珍しいし面白いが、入力する内容を喋らなければならないのも、自分はちょっと恥ずかしい。

触覚という壁を乗り越えるには、点字のようなプラットフォーム(といっても国によって違うらしいが)を介するか、何らかのフィードバックを発するガラスのようなものが鍵になるのだろうと思う。あるいは電脳化。あるいはクローネンバーグの映画に出てきそうな生体デバイス(とびきり気持ち悪いやつ)。

2012年3月9日金曜日

キャラ作りとセルフブランディング

結論から言ってしまえば、キャラ作りは他者から求められる役割に自分を合わせることで関係を固定する試みであるのに対して、セルフブランディングは他者に対して発揮できる役割をアフォードすることで関係を持続する試みである。

せっかく舞台に上がるのなら、端役だったとしても、他人が自分に求める役割を演じるより自分自身を演じた方が良い。そうすれば大根役者でも多少は許されるだろう。

転職するしないは別として、習慣として半年に一度はCV(履歴書)を整理するようにしている。色々、見直すには良い機会だが、書類上の人物と自分が同じ人物とは思えないところがある。もちろんCVなどに、自分らしさと思っている妙な癖や(酔って片付けるとか)つまらないこだわりなどは書くこともないのだが。

仕事をしている自分と個人としてのそれの区分けという点で面白かったのが、HBR IdeaCastでのアンソニー・ボーディンのインタビュー。アンソニー・ボーディンはTVドラマにもなった『キッチン・コンフィデンシャル』の作者で、本もドラマもクレイジーな人間ばかり出てきてめちゃくちゃ面白い。ディスカバリーチャンネルでも『アンソニー世界を喰らう』という番組を持っている。HBRのインタビューの書き下しはここにある。特に面白かったのは終わり間際の、下記のくだり。拙訳にて失礼。
スージー・ジャクソン: 個人としての人格と一緒に、それと緊密な繋がりを持ったビジネス人格があるのはどういう感覚なんでしょうか?有名人であるアンソニー・ボーディンと、個人であるトニー・ボーディンとの間でバランスを取ることに難しさはありますか?
アンソニー・ボーディン:自分自身でいることでそのまま評価されたという点で、自分は本当に恵まれた立場にある。2000年に『キッチン・コンフィデンシャル』がブレイクしたとき、これが自分が一生抱えて生きていくべきアイデンティティだと間違って思い込むこともしなかった。ハンター・トンプソンのように終わる気は毛頭なかった。生活の質こそが自分の関心の中心にあって、そこで興味を持続する方法も自分にはある。自分自身のパロディにならないように気をつけているし、そうなったときに真っ先に指さして笑うのは自分だね。革のジャケットを着たり、いつも煙草を持って画面に登場したりといった、特定のキャラや他人から期待される振る舞いを背負っていくべきだと考えたこともない。
青字部分は、原文ではPersonaだったが今の日本語ではキャラが最も近いのでそう訳した。キャラが濃いとかかぶるとか、キャラ疲れなどという場合のそれである。

大した才能があるわけでもない凡人としてはどこかで社会との折り合いをつける必要があるわけで、キャラ作りを全否定するわけにもいかないが、実質を欠いたままキャラを作っても、所詮は空っぽの入れ物に過ぎない。

セルフ・ブランディングやパーソナル・ブランディングという言葉が注目される背景には、曖昧なjob descriptionとfirm-specific skillをベースとした運営では日本企業がやっていけなくなって、組織も人的資源もモジュール化が進んだり、変化が激しいなかで個人のスキルの陳腐化、断片化が進みやすいという側面があるのだろうと思う。

一方で、就活をパッケージ化して売ったリクルートのように、断片をかき集めて形を作る作法を売ろうという商売もあるのだろう。いっそ断片を愛するなら、朝鮮の茶碗の欠片を愛した桃山の文人のように行ってみたほうがいい。

2012年3月4日日曜日

2012/3/4

原作のある映画を観るときには、原作が持っているメッセージと、映画監督のメッセージとは別のものとして観るようにしていて、どちらを取るかはどちらに接したかによる。原作のメッセージを理解することは、それを解釈して映画にする人間にとっては義務だろうと思う。ただし、理解した上で逸脱する分にはその限りではないとも思う。

ドラゴン・タトゥーの女

『ドラゴン・タトゥーの女』を観た。デヴィッド・フィンチャーの新作。

色々なレビューで指摘されている通り、今回の作品のカット割はとても変わっている。始まってしばらくは見辛いなあと思っていて、映画館の前の方の席に座ったせいかと思っていたが、そうではなくて、通常の映画とはカット数とその変わり目が他の映画とは少し様子が違う。
例として、主人公の一人であるリスベットが調査対象の回線に何かを仕込んでいるシーンなどは、普通の映画ならば 1. 配電盤の蓋を開く → 2. 回線を見つける → 3. 回線を引っ張りだす → 4. 細工をする → 5. 細工を終える → 6. 配電盤の蓋を閉じる というぐらいのカット割になるだろうが、この映画では 1. 配電盤の前に立つ → 2. 細工をする で終わりである。おまけに、それぞれの切れ目もやや不十分なところで来てしまう。 

どんどん切り替わるので、カット数が多いように見えるが実は少ない。しかしギリギリで何をやっているかは分かるようになっている。鑑賞者の認知の限界に挑戦しているようですらある。このカット割はリスベットの行動シーンで顕著に見られるもので、彼女の行動の迷いのなさと正確さを演出する上で最適の手法だと思う。
もう一人の主人公であるミカエルの登場シーンでは、追い詰められるに従ってカットが長くなる。こちらでは爽快感とは正反対のにじり寄るような緊張感が出る。カット割に象徴されていryが、人物造形の上でもミカエルが情緒の人でリスベットが情報の人として鮮明に対比される。

リスベットの行動は目的に向かって最適化されており、見たまま洗練されたプログラムそのものである。わたしも単純作業を行う際には自分で自分に対してプログラムを書いて実行するような意識でいるが、これは恐らく多くの人がやっていることだろう。

この2人は同じ真実に到達するのだが、そのプロセスはどちらも地道な調査のようでいて、ミカエルがある共通点に気付くところから、リスベットが大量の情報の蓄積と整理と、やはり行動上の相違が表れている。

この2人は、目標のために行動を共にするものの、それが達成された後ではすれ違ってしまう。この点では前作の『ソーシャルネットワーク』の延長線上にあるもので、モチーフの上では特に飛躍しているわけではないが、手法と表現の深化という点では何歩も進んでいると思う。

あれこれややこしいことばかり書いてしまったが、内容的にもスリリングで面白いものの、割と過激なシーンが多いのでその点にはご注意を。なお、トレント・レズナーによるサウンドトラックは相変わらず素晴らしい。登場人物がNINのTシャツを着ていて、またそれがいかにもな人物であるところなどは笑える。


移民の歌


※リスベットと男性性との対決というのは重要な要素だとは思うものの、これが原作から引き継がれているものなのかは、原作を読んでいないので分からない。