2013年9月9日月曜日

アメリカ映画としての『パシフィック・リム』

『パシフィック・リム』の興行成績は、中国での売上がアメリカでのそれを抜いた。巨大ロボと怪獣がステゴロ勝負する映画がこんなに受けるなんて、何が売れるかよく分からないものだと思う。私は存分に楽しんだが。

本作は米国外での収入が75%を占めている。この結果から逆算するのはフェアではないし、そもそも正しくもないのだが、いわゆる強いアメリカの凋落ということが近年のハリウッド映画に様々な形で影響を与えているのは間違いないことで、これは本作においてもジプシー・デンジャーの造形のなかで十分に確認できる。

ジプシー・デンジャーの地味な色は、「マン・オブ・スティール(筆者は未見)」でスーパーマンのコスチュームの色が、かつて露骨に星条旗を想起させる派手な赤と青であったのがくすんだ色となっているのと相似形を描いている。それだけではなく、原子力を動力にしている旧式という設定、一度カイジュウに破れているという物語にしても、現在のアメリカの姿を強調していると考えて良いだろう。


『パシフィック・リム』におけるイェーガーの大きさはこの色彩を補う効果もあって、圧倒的なサイズ感によって地味な色彩を克服する表現は相当に成功している。また、重い質感も非常によくマッチしていたと思う。たまに何が起きているのか分からない瞬間もあったが、地味な色彩のものが暗い画面のなかで早く動きすぎると、画面のなかに沈んでしまう。このため、舞台となった香港の街も華やかで良かった。今の東京は少し色が少ないし、過去の色々な作品で壊されすぎている。

双子の兄弟がパイロットであった点については、設定から導き出された部分もあるだろうが、単独で強さを発揮していたかつてのアメリカを思えば双子以外の設定はありえない。割とやんちゃなところのあった弟に対して、落ち着いていた兄の存在は、アメリカにとっては「自信」だったのだろう。引きこもって壁の建設に従事する辺りによく表れている。

こうした見立てでいくと、最終的に同乗者が日本人になってしまう辺りはベニチオ・デル・トロからの愛の表明に限定されるものでもないし、オーストラリア機で父親が離脱して黒人のリーダーが跳ねっ返りの若手と組むというところも、結局のところどいつもこいつも余裕のない米国が補佐しなきゃいけない矛盾がよく表れている。これは確かにアメリカ人にとっては楽しくなさそうだ。

他国はそうして苦しんでいるアメリカを見て、ややこしい問題については頑張ってくれたまえ、でもこちらにも予算はないけど美味しいところは残しておいてくれという調子でいる。中国のギミック溢れるイェーガーがあっさり敗退しつつ、きちんと売れているのは、大国が暴れている足元でしっかり稼いでいる商人たちを描いているからではないか。また、アメリカ的なものを脱色しつつ、環太平洋的な場に置くことのできる、ベニチオ・デル・トロの立ち位置に絶妙なものがあったのではないかと思う。だいたいこのバランスを取ったところで成功したと言える。

ロボットアニメや怪獣映画に関するあれこれも、書きたい気持ちはあるがそういう論評はいくらでもネットにあるのでそちらを読んでいただいた方が良いと思う。例えばこちらなど。

そういえば、英国はまったく存在していないようだった。アトランティック・リムではないのだから仕方が無いが、もはやあの国には便利屋(グローバル人材)の007しか居ないのだろうか。

2013年8月29日木曜日

風立ちぬ(雑感)

というわけで、『風立ちぬ』である。

感動したのかと言われれば、まあ何度か泣きそうになったので感動したんじゃないかとは思う。それよりも、こんなとんでもない映画を作ってしまう宮崎駿に畏れ入ったという思いの方が強い。

今年は、『コズモポリス』とか『ホーリーモーターズ』とか『パシフィック・リム』とか豊作だなと思っていたが、全部吹っ飛んでしまった。

これは○○の映画であると言い切ってしまえる内容でもない。まとまった文章にすると長くなりそうなので、思ったことを書いてみる。

・メフィストフェレス=カプローニ
映画の前半は、完全にメフィストフェレスに魅入られてしまったファウスト博士の話である。カプローニはあくまでも二郎の心のなかにだけ登場する。カプローニの表情や瞳孔が開いている様子からも、二郎のなかの狂気(願望)を代弁しているキャラクターだ。

彼は軍用機として開発した機体を輸送用のものとして私的に使っているシーンがある。これはクライアントに面従腹背して自分の目指すものを作る心性の現れだろう。他にも、失敗の記録を破棄したりするところも描いている。こうした準備段階を経て、物語が展開するのが軽井沢である。

・メフィストフェレス=カストルプ
二郎は軽井沢でゾルゲをモデルにしたであろうカストルプと接触したことで特高に睨まれることになる。そのため二郎は会社によって保護され、戦闘機の開発を継続することになる。

飛行機の開発そのものは二郎の意志に発するが、それが戦闘機となることはこの時点で決まっていたし、開発を断るという選択は二郎には与えられていない。そして、会社からの庇護も二郎が有用である限りの話であるため、失敗も許されない。

カストルプはドイツや日本の戦争の結末に対して破滅(破裂?)が待ち受けていると予言しており、このときの表情はカプローニそっくりである。ここで、二郎の運命と飛行機開発の結末は提出されている。

そのことは、二郎や同僚たちも薄々気づいていたことだろう。そうしたなかで、「機関銃を積まなければ早く飛べる」などというセリフを吐ける二郎は大したもので、そこに感心している服部もまた、恐らくは元開発者として二郎の心性を分かった上で、開発を任せるための闘いが組織の内外であったのだろうと思う。

二郎の佇まいを見ていると、こうした外的条件について二郎があまり気にしない人として描かれているが、そうした「現実」に対応するキャラクターは、服部や黒川、本庄などの職場のメンバーに託されている。

ところで、カストルプという名もあくまで二郎が手紙のなかで書いているもので、本人がやたらと引用していたトーマス・マンの『魔の山』から取ったものだ。当時のインテリがそうした引用からあだ名をつけることは、何となくやりそうなことではある。なお、ゾルゲ(Sorge)という名は、ドイツ語で不安や憂慮を意味する。そういうこともあって、個人的にはゾルゲであるというのが収まりが良い。

・菜穂子とお絹
菜穂子が二郎にとって都合の良い女性であった、という批判的な観方があるようだが、当時の超エリートの二郎にとっては自分にとって都合の良い女性と結婚するなんてのは簡単な話のはずである。わざわざ結核を患っている女性と結婚するのは、やはり互いが互いを必要としていたからだ。その点では宮崎駿は、きちんと自分の流儀を貫いていると思う。

お絹が結婚して子供を産んで幸せになっているというのは、二郎にもあったかも知れない可能性が彼女に託されている。どちらかといえば、彼女の方が二郎の初恋の人なのではないかと思うのだが。

・彼我の差
二郎にとって仲間とそうでない人間の差はなにか。設計図を見てそこに描かれた飛行機が飛んでいる様子を想像できるかできないか、そこが分かれ目だろう。ドイツ人の警備員や技師は、例え飛行機に関わっていても、交流ができる相手としては描かれていない。

警備員が「日本人は我々ドイツの技術を盗む」といかにもなセリフを吐くが、ユンカース博士は二郎達の見学を許可する。技術を持ち合わせない人間に、その技術について「我々の」と言わせている辺りにはアイロニカルな批判があるだろう。

菜穂子は何なのかと言えば、仲間ではなく自分の半身である。

・創造的人生は10年
くり返し強調されるが、外部条件、本人の才能、その成熟度、サポートする人の存在など様々な条件が重なっているのが10年という意味なのだろうと思う。宮崎駿にとっての10年というのは、もしかすると好き放題やっているように見える、『千と千尋~』から『風立ちぬ』の期間に託されているのだろうか。あるいはそうではないのか。

・終わり
すでにカストルプが予言している通り、二郎の夢が実現した先には滅びた国がある。そして、そこで出来たものが何であっても、理想というのは諸々の条件に対して妥協した形でしか実現しない。それを美しいものと言って良いのか、という点については私は答えは持っていない。

2013年4月14日日曜日

TAUS Executive Forum 2013

日本では3回めのTAUS、ともかく皆勤しておりまして、今年も参加してきました。

残念ながら前回ほど参加者も多くなかったのですが、これまで機械翻訳やポストエディットに関わる大げさな言説も鳴りを潜めて、現実的な話を落ち着いてできる良いカンファレンスであったと思います。派手さは確かにありませんでしたが。 

自分がTAUSを好きなのは、既存の翻訳やL10Nという枠組みよりも大きな技術的、歴史的視点から自分の取り組んでいる課題について見直す機会になるからで、その他の団体によるイベントよりも良い刺激を受けられるからということがあります。

反面、打ち出すコンセプトがEUの理念(リスボン条約)の影響をかなり受けていて、あまり日本の状況に当てはまるものではない点が前回で明確になっていたのも確かで、その点でもう少し具体的な話に引き寄せたり、ローカリゼーションが必要な部分もあるのだろうとも思います。

ただ、アカデミックとビジネスとの橋渡しのできる団体というのは、今のところTAUSぐらいで、本来であればこの両者はもう少し近くあるべきだと考えています。自分の業務のなかでも試したことではありますが、アカデミックの持つ客観性や、ある技術に対する等身大の評価というのはビジネス側にとっても意思決定を行う上で重要なことでもあります。特にMTやポストエディットは、この数年はあまりにもマーケティング主導というか、利点ばかりがアピールされてきた面が強いことは否めません(一部にあるMTやPEに対するアレルギーもこれが大きいのだと思います)。

わたし自身は、L10N的な意味でのローカリゼーションのど真ん中にいるのですが、そろそろ次の動きというのが見えてくる頃合いなのだろうなと思います。それが何か、というのはいずれまた。

2013年4月9日火曜日

Sonar Sound Tokyo 2013

Nicolas Jaar目当てに参加してきました。

勢いでチケット買ってしまったので、NJ以外に誰がいるのかまったく知らずに参加したのだけれど、カール・ハイドが出てたんですね。へえ、アンダーワールド解散してからソロでやってたんだ、ボーン・スリッピーとかやるのかなあと思いながらのんべんだらりと過ごしてまいりました。

Red Bull Music Academyのテントにいる時間が一番長かったような気がします。知らないアーティストばかりだったけど、みんないい音出してました。

しかしNicolar Jaarはライブであんなに凄まじい音を出してくるとは想像だにせず、凄すぎてカール・ハイド観ずにそのまま放心状態のようにフラフラと家路に。

音が急に遠ざかったり近づいたり、途切れたり復活したり、色々な揺さぶりをかけてくるのですが、その様子は下記のブダペストでのライブでも確認できます。



彼のCDやミックスを聴いているとルーツが判然としないのだけれど、恐らく膨大な基礎教養があって今の地平に立っているんだろうなあということは簡単に想像できる。

一番好きなのはこちら、Mi Mujer

2013年4月1日月曜日

解像度

デジタル一眼レフを弄ったとき、人間の目ってのはなんて粗くものを捉えているのだろうと思った。一方で、恐ろしく解像度の高いサンプル写真を見て、いったいこれで何を撮れば良いのかさっぱり分からなくもなった。

ああ、それで、なんだっけ。このサイトが話題になっていて、解像度って奴の使い方が何となく分かったというか、隅から隅まで見えないように見せること、あるいはその先に飛び込ませるのが一つの使い方なのだろうということを思った。これ自体は写真というメディアが元々持っている、撮影者の意図しない何かが映り込む効果の延長線上にあってとくに目新しいものでもないのだけれど。

やたらと解像度の高いカメラを持ってしまうと、自分のような凡人は自分の脳で処理できる以上の情報を眼から受け取っているイカのような存在になってしまいそうだなと思う。

2013年3月28日木曜日

Bonobo / The North Borders


Bonoboの新譜が発売された。これはいいアルバム。今年のベスト候補じゃないだろうか。

2013年3月16日土曜日

企業が「帝国化」する

『企業が「帝国化」する』を読了。

かったるい読書。本がかったるいわけではないが。

乱雑にまとめると、筆者が属していたアップルや、あるいはグーグルのような企業が私設帝国と化していき、仕組みを作る側とそれを回す側との格差が開くことや、その構造がどのように作られているのかを述べている本である。

仕組みを作る側と回す側に分割されて云々というのは、元々企業というものはそうした仕組みで動いているもので、成長した企業が帝国化してサプライチェーンに入るかどうかが特定の企業の分かれ道になるという話も、日本各地にある企業城下町を見てみれば馴染みのあるものだ。鎌田慧の『自動車絶望工場』などはトヨタのそうした一面を表している。

むき出しの資本の論理に個人が絡め取られていくという話は今にはじまったものでもない。結局のところ、根底にあるのはグローバリズムによって先進国の中産階級の食い扶持が減っているということで、これもまた大昔からよく言われていることだ。確かに登場してくる情報はアップデートされたものだし、興味深いのだけれど、どこかクーリエ・ジャポン的な印象がある。

2013年2月28日木曜日

2013年 初日記

気付いたら2013年も2ヶ月が過ぎてしまおうとしている。

転職して2ヶ月経過、というところである。わたしの役割はといえば、まあよくあるカオスから秩序を作っていくものというか、切り込み隊長というか、そんなものである。

この手の仕事は、歯磨き粉のチューブから残った中身を絞り出すように、はじめのうちはけっこう調子が良いのだけれど、だんだんとしんどさが増してくる。歯磨き粉の味見やどう使っていくかを考えるのが楽しい人や、地道に絞り出すのが好きな人など、色々なタイプの人間がいるが、自分は絞りだす人としては凡庸極まりないというか、その点では自分よりももっと優れた人間がいることは素直に認めている。

しかし、たまには苦手なこともやらなければいけないものだし、やっている間に対処している問題に対する認識というものも変わってくる。

個々のお金になる作業というものは、本質的には会社にとっても、個人にとってもその先の行方を決定付けてしまうような本質的な問題ではなく(もちろんそれがあって事業や生活がある点で重要ではあるが)、その先にある目標と課題設定が何であるかが問題なのだろうと思う。というか、そこを見失うと長期的には袂を分かつようになるのではないかと思う。

そういう点では、いささか牽強付会であるにせよ、自分の生存戦略とはそう遠くないところにいるという点でなかなか面白い環境にいるものだとは思っている。

2012年12月31日月曜日

ファスビンダーと美しきヒロインたち

渋谷のイメージフォーラムで上映中のライナー・ヴェルナー・ファスビンダー特集、『ファスビンダーと美しきヒロインたち』に行ってきた。ネタバレを含むので注意。

彼の作品を観るのはこれが初めてで、これらの作品の背景となっている戦後のドイツ社会の変化についても、どうしても把握しきれないところがあるが、そうした点に関する深い洞察が無くても楽しめてしまう物語的な面白さと、そこに留まらない表現力にはとても驚かされた。

未知の映画監督の作品を観るときには、自分の場合には例えばカサヴェテスのときもそうだったが、色んな作品を横串で観た方が良いと最近は思うようになってきている。こうしたイベントの場合などは、企画している人の意図について後から考える材料にもなるし、素人が盲打ちで観ていくよりはよほど精度の高い見取り図を得られる。詳しくなった後であれこれ文句を言うのも含めて、色々な面でお得である。

ドイツというのは、わたしにとっては近くて遠い国で、知識のマップがまだらになっている。そういうなかで、この3作品に触れて、ドイツ社会の規範性の強さや、それと相反するような集団で動く際の倫理性の欠落、またそれらが個人(あるいは、もっと限定するなら愛)をどのように規定するかという点が問題になっているのだろうと思う。

規範性の問題が最も色濃く出ているのが『マルタ』で、ジェットコースターでゲロ吐いてるところでプロポーズをしたり、日焼けしすぎで真っ赤になっているところでマルタを抱くなど、明らかにマルタの夫であるヘルムートの行動は異常なのだが、マルタは友人にそのことについて相談しつつも、その事実を体面を気にして覆ってしまう。一方でヘルムートは自分の行動はマルタを愛するが故のものだと説明するが、彼はマルタがあるべき夫婦の規範に囚われるタイプであることを理解して、自覚的に行動している。

しかし『マルタ』のこのシーンは凄い

倫理性の欠落については、『ローラ』がそれに当たるが、それが元々あるのではなく、様々な人を巻き込みながら達成されるものとして描いている。堅実で汚職など許さないフォン・ボームがローラへの愛が故に敗北し、ローラはフォン・ボームと結婚しながらシュッケルトから娼館を譲り受けもする。

観たなかでも最も面白かったのが『マリア・ブラウンの結婚』だったが、この作品に関しては、規範性と倫理の問題、また愛の問題のバランスが最も良く、また構造としても分かりやすい。主人公のマリアは、上記のローラと同系統の人物だが、『ローラ』が群像劇であったのとは異なり、マリアを主人公としたピカレスク・ロマンの色合いが強く、マリア個人の背景がもう少し詳しく描かれている。

マリアがローラと同じ系統の人物であると書いたのは、彼女が自分に向けられた愛を利用して様々なものを手にしていくことに由来している。『マリア・ブラウンの結婚』における登場人物たちはそれぞれに求めるものに渇望を見せており(彼らはしばしば、オブセッシブに煙草を吸ったり、ピアノの鍵盤を乱雑に叩いたりする)、主人公のマリアだけはそうした執着とは無縁だ。マリアにそれを可能にしているのは、結婚してはいるが夫が不在であるという状況であり、また不在の夫を愛しているという言表である。
「じゃがいもがなきゃ大根を使えばいい。でも、愛にだけは代用が効かない。どうして愛する人はただ一人なんだろう。」
上記は愛に関する作中のセリフである。言い換えると、彼女は代用不能なものを餌にして、交換可能なものを手に入れている。マリアはとりわけ、夫が身代わりで刑務所に収監されてからは、この構造を自覚的に利用しはじめる。

自分の持つ力を冷静に、自覚的に運用する点ではマリアと『マルタ』におけるヘルムートも同じだが、ヘルムートが不快なのは自らの保身に使っている点にある。『マルタ』の後味の悪さは、マルタとヘルムートの間に横たわる規範性が、作中で不動のものとして固定されてしまうところにある。

一方で、マリアに魅力があるのは自らの役割をひっくり返し、経済的主体として「自らを確立した」ことで合理的な自己目的に向けて最適化されている点にある。そうした在り方は、レッセ・フェール的な市場における適切解であり、彼女はやはり『ローラ』の登場人物たちと同じ場で活躍する。この見立てでいくと、『ローラ』におけるフォン・ボームは、不正を許さない穏やかな紳士として描かれているが、市場統制派なのだろう。

マリアに戻ると、自分を支えてきた構造が崩れることになるからこそ、夫が急に釈放されることが決まったときには喜ぶよりも先に狼狽したし、その後で夫が本当に戻ってきたときにも複雑極まりないな表情を浮かべることになる。

最大限の抵抗として夫に全ての財産をくれてやることで男としての存在感を無くし、夫不在の状況を作ろうとしているが、それもビジネスパートナーとの取り決めによって対等の財産を手にすることが判明し、彼女を支えていた空白は埋まってしまう。終始一貫して執着とは無縁だったマリアが、その象徴としての煙草に火を点けることで物語の幕が下りる。

マリアはあらかじめ求めるものが失われているが故に、何でも手に入ることができる。この物語構造は、全てを持っているが肝心なものは手に入れられないという、『市民ケーン』でも有名な人物造形を裏返したものだ。不在の夫から定期的にバラの花が届くのはオーソン・ウェルズへの目配せと考えるのは、穿ちすぎだろうか。

2012年12月9日日曜日

本棚の崩落

久しぶりの地震があって、翌日になって本棚が崩落した。

使っている本棚は、引越しの際にネットで適当に注文した安物で、見た目はいいが微妙なバランスを保っていないと崩れてしまう。おかげで、だいたい年に一度は崩落事故が起きている。

またかと思って、まずは本を救出して床に広げる。大した冊数でもないのに、物理的な紙の量に少し驚く。全て読んでしまった後だし、始末してしまった方が良いような気もしてくる。

Kindleを使っていれば、全てがあの薄いデバイスのなかに収納される。収納はそれで解決する。一方で別の解決しない問題も出てくる。

電子図書において致命的なのは紙というメディアに対するフェティシズムが満たせないことではなく、本棚という概念が存在しないことであり、各人が本棚を通じて構築している理解が俯瞰できない点にある。

アトムとビットとの対比を考える。ビットの世界においてある情報との遭遇は必然的なものになりつつあり、偶然的な要素は減っている。

本棚が崩落して、結果として本の配列が変わり、どこかで私の理解も更新される。電書のシステムは本棚の見た目はコピーしていても、こうした振る舞いは実装できていない。これが実装できたとき初めて、電書が書物を上書きする。

2012年12月4日火曜日

Electraglide 2012

エレグラに行ってきたんですよ、ということで。

幕張の遠さを舐めていたのと、入場に時間がかかったために高木正勝の最後の方から参加。その後、Kode9、Amon Tobin、電気グルーヴ、Squarepusher、一休みを入れてOrbital、Andrew Weatherallという流れ。

隙間でDJ KrushやDJ Kentaroも観られて、この面子で8800円って相当安いなあと思う。本当はFour Tetも観たかったんだけど、今回はSquarepusherにした。

Amon TobinのISAMは美しかった。ただ、事前の期待を裏切るような何かはあまりなく、またセットが意外と小さいこともあってあまり乗り切れなかった。


個人的には、Squarepusherが一番良かったと思う。この人がライブでやってることは、表面的な音が変わっていても基本的には同じで、原曲を留めない改変やノイズの追加が楽しい。CDで聴いてたら苦痛になるんだけどライブではいけてしまう。

後半になってベースを弾き始めてからが本番。どんなエフェクター使ってるのか知らないけど、とんでもない音を繰り出してきた。最後はお約束の"Journy to Reedham"で締めるも、イントロのピコピコ音とリズムぐらいしか把握できなかった。



・・・

あちこちで言われているように、ゴミは散乱してるし禁煙のフロアで喫煙してる奴はいたし(煙がどうこうというより、危険)、フジロックと比べるとだいぶお行儀が悪い。クラブなんてそんなもんだと言ってしまえばそうなんだけど、風営法絡みでの署名運動をしている横でそうした光景が広がっているというのは、色々見直したほうが良いんじゃないかと思ったり。

自分はその手の音楽はよく聞きつつも、夜寝ないとダメなのであまりクラブには通っていなかったので、昼間にやれば解決なんじゃないかと思うんだけど、そういうわけにはいかんのでしょうか。

2012年11月5日月曜日

【読書】ここは退屈迎えに来て/山内マリコ


『ここは退屈迎えに来て』を読んだ。

三十路帰郷モノとでも呼べばいいのか、都会に出ていた女性が何かのきっかけで田舎に帰ってからの生活を描いたマンガや小説はそれなりに需要があるようで、これもその一種。

ネットで話題になっていたのは、三浦展のファスト風土論に引きつけてある部分で(大した分量ではない)、既存のフォーマットの上に味付けとして使われているのだと思っていたら、巻末の参考文献に『ファスト風土化する日本』が載っていた。

これまで自分が読んできたなかで、こうした形で読者の読みに方向性を与えている小説に出会ったことが無かったので、けっこうな驚きだった。

登場するアイテムがいちいち的確(というか、同世代の匂いがすると思っていたら同い年だった)なことや、「地方都市のタラ・リピンスキー」でネットの小咄にあるようなどんでん返しを持ってくる辺りで、テクニック、マーケティングで書かれている部分が非常に大きい作品なのではないかと思った。

そして、そのために作品自体が閉塞してしまっている感がある。

読み進めるに従って過去に遡っていく形になっているが、そのことが登場人物の未来を形作っていく何かを明らかにするわけでもなく、現在の姿に新たな彩りを加えるわけでもない。どん詰まりの現在に行き着いて、そこで終わりである。

プロダクトとしての完成度は高いが、そこから先が無い。

それが自分の世代だと言ってしまえば、そうなのかも知れないが。幻冬舎の本だし、ミニマルな点に共感しながら読んでいるのがちょうど良いのかも知れない。

2012年10月10日水曜日

KIDULTの凡庸さ


VimeoにKIDULTの映像が上がっていたのを発券

彼のグラフィティはtumblrで何度か流れてきていた。下の写真のようなもので、わたしは新手の店頭ディスプレイかと思っていた。けっこう綺麗だし。これを作ったときの様子は上のビデオにもあるのだが、どうやらマジでやっているらしい。とっくに「回収済」だと思っていたのでちょっと意外。



ビデオのなかで彼が語っていることは、はっきり言って中身がない。そして凡庸。そもそも、彼のグラフィティがあまり有効でないから本人が前面に出ざるを得なくなっていて、誰か「回収」してくれと訴え出ているのかも知れないようにも思える。

2012年10月4日木曜日

ワークショップの有効性をめぐるあれこれ

9/29(土)に開催されたローカリゼーションマップ勉強会、「『自由に考えるワークショップ』を考えてみよう」に参加してきました。ワークショップとは何かという定義から始まり、その効果や意義について参加者同士での討議があり充実した内容でした。

私はLSPのファシリテーターとして自己紹介しましたが、参加にあたっての問題意識はファシリテーターというよりは参加者寄りで、ワークショップは特定の経験を濃縮した形で関係者で共有できるものの、そこで生まれた内容の実行段階に移ると効果が持続しなくなる点が気になっていました。

「楽しかったけど、結局アレは何だったんだ?」というやつです。

実利性という点では、広告代理店で行なっているように、ワークショップを通してコンセプトを参加者から引き出し、それを実際に使うメッセージや制作物に反映させていく方法は理にかなっていると思います。言い換えると、ワークショップで生み出された結果を制約条件として用いる方法です。

コンセプト(Concept)という言葉は語源的には「妊娠(Conceive)」の意が含まれるので、そのアナロジーを用いるなら、赤ちゃんが生まれたならきちんと育てていく必要があります。それも、勝手に育つということはないわけで、適切な制約(規範など)を与える必要がある。

最初から間違ったものが生まれていた、ということもあるかも知れません。ただし、遭難した山岳隊が登っていたのとは別の山の地図をそうと知らずに使いながらも生還したという話もあるように、正解がない状況で進んでいくには、「正しさ」や「適切さ」よりも全員が同じ方向に進むことが重要な場合もあります。その進む方向を決めるに当たって、カリスマが決めるのか、参加者のなかから発見していくかが問われており、後者の手段のひとつとしてワークショップがあるのだと思います。

逆にいうと、「正しさ」が重視されている環境ではワークショップの効果が限定的になってしまう可能性がある。そうした場合にしばしば問われるのは、「ワークショップの効果を事前に証明する」ことです。

この問いはワークショップに限らず、結果がオープンエンドなもの全般に適用することができて、
 - 良いデザインを作って製品の売上が伸びるか?
 - 伸びたとして、そのうちのデザインの貢献度だけを取り出すことはできるか?
 - できたとして、その説明に納得感はあるか?
といった形に言い換えられます。「デザイン」は情報システムなどに入れ替え可能です。答えは言うまでもないですね。

「良いデザイン」に対しては世間一般でもその価値は認知されてきていると思いますが、それを生み出す「クリエイター」という人種に対してある種のカリスマ性が与えられている影響もあるでしょう。具体的にいえばジョブスとか。

この点で、ワークショップに関していえば、カリスマ・ファシリテーターという存在が許されないのが弱点ですね。それが成立するようなら、そいつは本質的にファシリテーターではない。

ただし、もしかすると、ワークショップという形式を広めていく上では確信犯的にそうした人物を作り上げることも必要かも知れません。わたしもハイパー・ワークショップ・ファシリテーター(HWF)とか名乗ってみようかな?

大抵の人間は(自分も含めて)、誰かに「これが正しい」と言い切ってもらったり、自分を省みる暇がないほどサバイバルな状況に身を置かないと、自身の行動に確信を持てなくなります。

その意味では、ワークショップが目指すべきゴールの一つは、「赤信号みんなで渡れば怖くない」精神かも知れません。

それは冗談として、ワークショップのような凝縮された空間を作りつつ(そこまで極端でなくても)、決めたことを実行していくためにモニターしながらプロセスにも関与するような人は、今後は色々な組織のなかでは必要とされてくるのだろうなあと思います。とりわけ企業におけるマネジメント(トップ、ミドルともに)の在り方として。

これを実行、再現していくことに関しては、過去の経験に照らし合わせて、ある程度確信を持ってできると思っていることでもあります。当面のわたし自身のテーマとしては、それを実行していく場を作るということになります。

2012年10月2日火曜日

郊外としての湘南と駅ナカ

『移動者マーケティング』という本を読んだ。JR東日本企画による本で、「乗客」を「移動者(移動する潜在的コンシューマー)」と定義しなおすことで生まれる新たな需要の創造についてまとめた本である。

品川のecuteのように駅ナカの開発でJRが成功を収めていることは記憶に新しい。最近では辻堂に駅直結の大きなモール(テラスモール湘南)ができたり、札幌でも駅(と地下道)を中心に再開発が進み地域のコアになっている様子が見て取れる。最大の例は、大阪ステーションシティが開業8ヶ月で来場者が1億人を突破した例だろう(大阪万博は6,421万人)。

個人的には、こうした動きについては色々と思うところが多い。なかでも辻堂に駅直結のモールができたことは割と衝撃的な出来事だった。

その理由を説明するには、まず辻堂という場所について書く必要があるだろう。辻堂は神奈川県の藤沢市にある。いわゆる湘南エリアに含まれるものの、どちらかといえば地味なベッドタウンである。最近になってマンションが大量に建ったりして人口が増えている。詳細はこちらでも。

ブランドとしての湘南にはお洒落なイメージがあるが、観光地、ベッドタウン、三浦展がファスト風土と呼んだロードサイド、農地、工場、未開発のなんだかよく分からない場所。これらがだだっ広い土地に散らばっているのが実像だ。一言で表すならスプロール。いわゆる「湘南」は、そのなかでも寺社や自然が集まった地域が特区のように存在していると言った方が正確だろう。

きわめて大ざっぱに言って、神奈川県は相模川の辺りでモータリゼーションを中心とした文化圏と、公共交通機関を中心とした文化圏とに分かれている(もちろんグラデーションはある)。テラスモール湘南ができた辻堂は、地理的にはその川の「手前側」に当たる。

JRによる駅を中心とした街の再開発がモータリゼーションからの脱却の一貫として行われているものとして考えると、辻堂はその最前線に当たる。入っているテナントもかなり気合いが入っていて(ロンハーマンが横浜よりも先にできた)、モールとしては勝負を仕掛けているのだろうと思う。そういう意味で、辻堂の先(東京から見て)に同様の駅ナカモールができるときこそ、大きな変化が生まれる可能性がある。

ただ、この動きも単にモノとカネの動きを活発にするだけでは、また別の郊外を生むだけで終わる可能性がある。その場合には、経済状況もあってより一層悪い形で実現するだろう。

そこで生活する人間を含めて、「都市」というものについてどのようなグランドデザインを描けるかということが問われているのだと思う。この辺りのことについてはまた書きたいと思うが、いち消費者としては、そこで自分がお金を落としたり、落とさなかったりする選択が意味を持つような形になって欲しいと思っている。

2012年9月27日木曜日

アッバス・キアロスタミ『ライク・サム・ワン・イン・ラブ』


キアロスタミ最新作、『ライク・サムワン・イン・ラブ』を観た。

以下、ネタバレ注意。

前情報として、凄いところで映画が終わるというのは仕入れていたが、本当に凄いところで終わる。しかしエンドロールが流れたとしたも、物語が終わるわけではない。むしろそこから続いていくこともある。これはそうした種類の映画である。

彼の作品に特徴的なその他の要素、車での移動、街のノイズ、クラクション、電話、役者達の自然な演技などは本作品でも健在である。

ただ、それよりも目立つのは、登場人物達が執拗に「似ている」ことについて語ることだ。映画のからして、「恋に落ちた人のように」だし、タカシの部屋にやってきた明子はそこにある写真や絵に自分が似ていることを語り、明子の祖母はピンクチラシに明子に似た人物がいることを語り、同様のチラシを部下に見せられたノリアキはそいつを殴りつける。

「似ている」ことを認めないのはノリアキだけだ。

もう一つは、今回は内と外の表現が非常に多い。タカシが一人で帰ってきたときの隣人の視点と、明子と一緒に帰ってきたときの隣人のおばさんの視点。その隣人のおばさんが弟の世話をする際の、二重の壁。タカシが明子を助けにいったときなどは、クラクションを鳴らしても明子は気づかない。彼は車から出ていくしかない。この境界を乗り越えられるのは声だけで、その媒介として電話やインターホンがある。それを切ることは、そのまま関係の切断を意味する。

その壁はぶち破られる。

この内外の表現は、そのままカメラの映し出す範囲として、登場人物の人物像や関係にも投影されている。様々な要素が見えないままになっている。

祖母はなんで連絡もついていないのに東京まで出てきたのか?明子の携帯電話の番号を教えた人は、何でそれを言って欲しくなかったのか?タカシはどういう経緯でサービスを依頼したのか?舞台が横浜なのに六本木のABCが本屋である理由は?

見返しながら、こういう部分を色々想像して補完してみるのは面白そうだ。もしかすると、最初から穴は開いていたのではないか、というのがわたしの想像だ。

2012年9月24日月曜日

100件目

このブログを書き始めて100件目の記事、のはず。
公開していない記事を入れるともっと多いが、ともかくちょっと整理してみよう。

アクセスランキングのトップ5は以下。
1. カバーヨ・ブランコの死とニューエイジの書としてのBorn to Run
2. ソクーロフによる『ファウスト』観てきました
3. FUJI ROCK FESTIVAL 2012 参戦記
4. Lana Del Rey
5. ボストン滞在記
キャッチーさのまったくない2件がツートップ。らしいといえばらしい。4位も含めて検索エンジン経由でのアクセスが多く、私個人を知らない人のアクセスなのは良いことだと思う。

1位の『Born to Run』という本に関しては足底筋膜炎から抜け出すきっかけを貰えたので感謝している反面、どうしても違和感を拭えないところがあった。その違和の部分に焦点を合わせているので、多少刺激的な内容になってアクセスも多いのかも知れない。ソクーロフは多分、観た人が「わけわからん!なんだこれ!」と思っているのかなと。

以下、雑感。

・Facebookで私と繋がりがある人からは、意外な面があったとか、あまりイメージが変わらない、とか色々な反応があって、とはいえそうした反応はその人達との関係からだいたい予想はつくものだったりする。大抵の人は読んでないだろうけど。

・書き始めたきっかけとしては、何年か文章を書いていなかったので構成力や表現力が落ちていたこと。続けていくうちに自分の考えを形にして吐き出すことが肝になってきた。次へ進むために頭から追い出すということもあるが、ぼんやりとした考えをそのままでは抱えていられなくなってきた気がする。

・内容と文体とを統合しようとするのはしんどい作業なのであまり行なっていない。ただ、文書を洗練させるには必要だと思うので、どこかで取り掛かろうとは思う。

・内容によって文章へ投下したエネルギーに差がありすぎる。

・書く内容については、かなり意識して剪定している部分があるので、書いてあることが全て本当のことであるとも限らないし、その他のブログと変わるところはない。

Kindleでメガ・ノヴェルを読む

ドン・デリーロの『アンダーワールド』を10年ぶりぐらいに読み直している。

日本語版が実家のどこかに紛れてしまって見つからないので、英語の勉強を兼ねて原著に挑戦。

Kindleで読んでいるので、他の読者が加えたハイライトが人数付きで見える。あまり詳しくないので実際は分からないが、恐らく一定の人数がハイライトした部分が表示されているのだと思う。

書き込みがある古本は鬱陶しいが、こちらにはあまり不快感はない。むしろ、デリーロのような,、拙速に読み進めるよりも細部をじっくりと読み込んでいく必要のある作者の場合には、ハイライトがあると他の人が注目しているポイントが見えて面白いことも多い。

ハイライト箇所だけ追いかけていくこともできて、これはこれでtumblrでウェブや本の抜粋が流れてくるのと同じような印象を受ける。

ともかく、巨大な本なのでメモだけでも残していこうと思う。公開しても自分の能力不足が目立つだけかも知れないが、それは受け入れるしかない。

2012年9月20日木曜日

Moe and ghosts (追記有)



最近、Moe and Ghostsばかり聴いています。これを聴けと俺のゴーストが囁(略)

所属レーベルHEADZ佐々木敦氏によるコメントはtogetterにまとまっています。いつもは売り手によるコメントは、どうしても割り引いて考えてしまうのですが、Moe and ghostsやこのアルバムに関しては当たっていると思います。

幽霊というモチーフについては、インタビューでは下記のように語っています。
幽霊とは多義的で人によってイメージするものも様々です。例えば「お化け」だけが「ghosts」ではないですし、何度口にしても定まらないもので、だから何度でも言いたくなってしまいますよね。
かなり早口のラップなので完全に追えていない部分が多くあって、そのために断片が積み重なって浮かび上がってくる音はリスナーによって違うのだろうと思います。

意図的にやっているんだと思いますが、ラップに反してトラックはかなり聴きやすいし、くり返し聴くことで意味合いが揺らぎを含みながら立ち上がってくるため、モチーフとする幽霊的なるものとスタイルが噛み合っていて(それも奇跡的なレベルで)、要するに好みです。

ブリストル勢やDJ Shadow、DJ Camなどを聴いて育った人間としては、人間としてのラッパーなんて別にいらないじゃんと思っていたりします。その点、Moe and ghostsは初音ミクぐらいの存在感であまり気にならないというか、よく考えれば「萌え」という概念も、実体を伴わなくても良いものですね。

そういうわけで、ライブがあっても行くべきなのか。あんまり生身の人間がパフォーマンスしているところを見たくないような気持ちもあります。恐らく本人達はまったくそんなこと考えてないと思うんですけど。

(9/30追記)

Ustreamで流れていたライブを観ましたが、想像していた以上にパワフルで素晴らしかったです。行けばよかったなあ(行けなかったけど)。

2012年9月5日水曜日

【読書】スティーブ・ジョブス(3/3) アップルの作戦能力

これまで、ジョブス個人についてばかり書いてきたので、一応は仕事もしている人間として、アップルという会社について。

アップルについては本当に色んな本が出ていて、そのなかで私が読んだのはごく一部なんですが、最近話題になっているものということで、『僕がアップルで学んだこと』。

著者の松井博氏はジョブスが復帰した頃からアップルにおり、最終的には本社でシニアマネージャーを務めていました。その視点からアップルの強み、特にOperational Capability(作戦能力?あまり適切な訳語を知らず)について語っているのがこの本です。

実は松井氏のブログ(リンク)を読んでいただいければ、できて当たり前のことを当たり前にこなす上にそのレベルを少しずつ上げていくアップルという会社の凄みが伝わります。蛇足ながら、、少しだけ本からの抜粋を。

・研究開発費
MSの1/8、Googleの1/3。明快な商品コンセプト、優れたデザインを開発工程の上流で生み出した上で、そこから先の開発や製造はケチケチとシビアにやっていく。 コンセプトやデザインがしっかりせずに良いものを作るのは不可能。ここが定まっていないと、開発費は嵩んでいく。 
・開発状況は「定点観測でチェック」
著者の松井氏は日本風にいえば「品質保証部」の統括。アップルにおける品質保証部の役割とは、品質を「保証」しようとする努力ではなく、開発中のプロジェクトの状態を定点観測することで、その製品が出荷可能な状態にどの程度近づいているかを測る機能。部署ごとに責任を持つ範囲に関するデータを持ち寄り、互いにチェックしあうことで定点観測を行う。 
・社員同士で競争させる、社外の「アップルで働きたい人」も競争相手
社内転職も比較的容易なので、いい意味で目立つ人はより花形の部署へ移り、出世も早い。優秀な人がそのときどきに「ホット」なプロジェクトに集まってくるので、会社が注力したい製品開発において自然と優秀な人材を確保できる。
・明快な責任の所在、説明責任、責任と自由裁量はセット
社内政治という形で表れていますが、相互にプロフェッショナリズムを求める文化ということだと思います。上記の基本的な考え方があってのものなので単にポリティクスが渦巻いているのともまた違った趣があります。もちろん、ここには責任に対しての報酬もあります。  

R&D費用などは変動もあると思いますが、品質保証に関しては同じような考えで臨んでいたので、自分のやっていたことの裏付けがとれたようでした。

自分のいた分野では、品質は印象論や個人の感覚で語られがちで、悪くするとシックスシグマに関するジョーク(合格基準を緩くすれば99.9997%なんて簡単に達成できる)みたいになりがちなのですが、きちんと根拠をとれるようにプロジェクトを設計しておくことは重要ですね。

というか、本を読んだ限りシックスシグマを愚直に追求しているのではないかと思いますが。

『僕がアップルで学んだこと』では、アップルの熾烈な社内政治についてもよく書かれています。あまり知られていなかった点で、この本がブレクしたきっかけの一つだと思います。社内政治については伝記のなかでもアップルとピクサーの文化の違いとして軽く触れられていいます。あまり突っ込んではいませんでしたが、やはりこれもジョブスに端を発したものなのでしょう。

単純に人数だけ見ても、ピクサーとアップルとでは組織の色合いが異なります。作っているものだもありますが、ジョブスの甘えを許さないペースで進めていくやり方を徹底する上で、関わる人数を考えるとアップルの方がより強い統制が求められるものと思います。

自分の経験に照らし合わせてみると、グループ全体で10万人を超える企業の会長の方にお会いしたときには、とにかく恐ろしいスピード感を求めるところに圧倒されたのですが、一方でその企業と仕事をしたときには、何事につけ時間がかかってしょうがないというギャップに面食らったことがあります。

得てして、組織で仕事をしていく際には受け渡しの段階で情報が加わったり減ったり、間違って伝えられたり、小回りは効きにくくなります。それ意外にもどこかがサボっていることもあるでしょうし、もたれ合いが発生することもあります。

その解法のひとつが、個々の部署のプロフェッショナリズムをベースとした相互監視体制であったのではないかと思います。ジョブス復帰後にプロダクトの数を絞ったことで、それぞれの開発状況について状況把握が行いやすくなる効果もあったと思います。

伝記では、あまりこの辺りのマネジメント的な部分は深掘りされていません。恐らく、死後にCEOを継いだティム・クックの影響も大きいためではないかと思います。どちらかといえば、ジョブスはそっち型ではなかったと思いますし。